唐代一の名宰相にして高句麗を滅ぼした男「李勣(りせき)」について

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李勣という武将をご存知の方はどれくらいいるだろうか?

隋の末期から活躍し、唐の建国の功労者である凌煙閣二十四功臣の1人で、太祖李淵の時代から則天武后の時代まで活躍した息の長い武将で、中国の長い歴史の中でも特に評価の高い人物の1人であろう。

今回はそんな李勣について見て行こう!

 唐建国の功臣として皇族姓を賜る

李勣の元々の名前は徐世勣と言って、元から李だった訳ではない。

徐世勣は元々裕福な生まれだったようなんだけど、隋の末期の混乱に乗じて自分も反乱に加わってあれやこれやしているうちに李淵という男が重要都市長安を落としたと聞いて自分もそれに加わることにした。

李淵は徐世勣が加わったのを喜んで「我が純臣なり!」と言って自分の姓である李姓を徐世勣にあげることにした。これで名前が李勣となったわけだ。

*本当は徐世勣⇒李世勣⇒李勣になった。李世民と被るからな。

李淵は李勣を次男の李世民(のちの唐の太宗)の部下とし、李世民も李勣を頼りにした。

李勣の活躍は目覚ましくて、竇建徳や王世充と言った軍閥との闘いで功績を挙げ続けたんだけど、あまりにも優秀だったためか李世民は李勣を疎んじることになる。

李世民は李勣が本当に自分の子供に忠誠を誓うか不安であった。そこで一計を案じて李勣を試してみることにした。

それは、息子への遺言の中に現れる。

高宗の重臣として

唐の太宗こと李世民は息子の李治に対して以下のような遺言を残した。

「もし李勣が左遷に不満を持ち、任地へ行くことを渋るようであれば即座に亡き者とせよ。もし任地へと赴くようであれば、即位した後に中央に呼び戻すように。左遷者を登用する事は大恩であり、それにより恩に感じて忠誠を尽くしてくれるだろう」

太宗は李勣を疎んじていたというよりも、息子の忠臣となってくれるかを心配していたのだろう。

かくして李勣は高宗となった李治のもとで活躍し、最重要役職である宰相の立場に任ぜられる。

高宗は何事につけても李勣に相談していたようで、政治そのものもかなり安定していた。

そんなある時高宗はある時新たに皇后を立てたいと思い臣下に相談をした。配下の全員が反対をする中で李勣だけが賛成をする。

高宗は喜んで今の妻を廃し新たな皇后を迎えた。

これがかの有名な則天武后である。

則天武后と言えば中国4大悪女として有名で、高宗亡き後に重臣たちを粛正して言ったことでも知られている。

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唯一粛正されなかったのがこの李勣で、理由は自分が皇后になるのに反対をしなかったから。

則天武后に関しては現在でも評価が分かれていて、李勣のもとで政治を行ったので名君と見る風潮さえある。

事実則天武后の粛正は宮廷内だけにとどまり、庶民の暮らし向きはかなり良かったと言われているからだ。

だが一方で則天武后を暴君とする立場からは悪政を助長したとして李勣は糾弾されることになる。

歴史とは面白いものである。

高句麗を滅ぼした男

隋の滅亡の一端は無理な高句麗遠征にあった。

隋の後継王朝でもある唐も644年から2回にわたり高句麗に出兵をしてきたが満足な成果は得られていなかった。1回目は太宗が、2回目は高宗が失敗している。

歴史を見れば煬帝はともかく中華の歴史の中でも5指に入ると言われる太宗が敗北していることから高句麗攻略がどれだけ困難かわかるだろう。

現在でこそ中国の首都は北京だが、この頃は長安に都があり、高句麗は遠かった。そのため補給が続かず隋時代から数えても3度目の敗北となってしまったのだ。

李勣が高句麗に勝てたのは、高句麗内部の内紛があったからである。

665年に高句麗王淵蓋蘇文が亡くなると淵男生が跡を継いだのだが、弟たちとの間に内紛が生じ淵男生は唐に降伏をしてきたのである。

李勣はこれ幸いと高句麗に攻め込みそのまま高句麗を唐の領地にしてしまう。弟達は新羅に投降したために、新羅と唐の間で領土争いが起こり始める。

もっとも、李勣に関しては新羅との闘いが始まる前に亡くなっており、669年、76歳で天寿を全うした。

個人的な李勣の評価

ケチのつけようがない武将であり宰相である。

実際問題諸葛孔明よりも遥かに有能だと言えるだろう。

失策はなく功はある。

最強の武将という訳ではないが、名将として確実に仕事をし、期を見計らって最高の仕事をするタイプである。

唐代はもちろん、中国の歴史を代表する名将であり名宰相であったと言えよう。