日本の歴史を日本の歴史書が記録し始めるのは8世紀以降の話で、それ以前の日本の歴史は中国の歴史書の記載を見るしか知る方法がない。
実はドイツの歴史も似ていて、紀元前後のドイツには歴史を記録する習慣がなく、そのころのドイツの歴史は敵であったローマ帝国の記録に依存することになる。
日本の最初の人物は委奴国王だが、ドイツ最初の人物は英雄アルミニウス(ドイツではヘルマン)だと言えるだろう。
最強のローマ軍を破る
「German」という国名が表す通り、ドイツはゲルマン民族の国だ。
ゲルマン民族とローマは共和政の昔からローマ帝国末期までずーっと争いを続けていた。
その興亡は常に勝ったり負けたりであったが、ローマ側が決定的に負けた戦いが紀元前9年に起きたトイトプルグ森の戦いだ。
時はローマ帝国初代皇帝アウグストゥスの時代、終わらないゲルマン戦争を終わらせるべくローマ皇帝は将軍プブリウス・クィンクティリウス・ウァルスをライン川の対ゲルマン戦線に投入した。
ウァルスはローマ最強と言われる三個軍団(第17部隊から19部隊)を率い、ゲルマン人の世界であるドイツの森へと入っていった。
これはウァルスの失策と言えるだろう。
森はゲルマン民族の庭である。
アルミニウスは実は元々ローマの将軍として活躍していた。
アルミニウスの父ゼギメルスはローマの将軍であるドルスス(第二代目皇帝ティベリウスの兄)に仕えていた将軍で、父と同様アルミニウスもローマの将軍としてゲルマン戦線で戦い、ローマ市民権を与えられたばかりか市民階級より上のエクイテス階級の権利まで与えられている。よほど優秀だったのであろう。
そのアルミニウスがどうしてローマの支配を抜け出し自分の出身部族であるゲルマン民族ケルスキー族を率いてローマに敵対したのかはわかっていない。
しかしわかっているのはウァルス率いるローマ軍が、アルミニウスの活躍により壊滅し、ウァルスは自決、トイトブルク森の戦いでローマは歴史的な敗北を味わったということであろう。
この敗戦を知ったアウグストゥスは「ウァルスよ、わが軍を返せ!」と繰り返し叫んだという。アウグストゥスにとって生涯忘れ得ぬ敗戦になったのはもちろんだが、この敗戦によりライン川を越えることをローマは諦め、以後これはアウグストゥスの遺言として後代のローマ皇帝を縛っていくものとなる。
ローマ側の兵士で生き残った者がいないため、実際にトイトブルク森で何が起こったのかは記録されていない。
戦いの四年後にトイトブルク森を訪れたタキトゥスの記録によれば「白骨…壊れた武器と馬の残骸、また人間の頭蓋骨が木の枝に引っかかっていた」という状態であったらしい。
ローマ側からこの戦いを見ると、アルミニウスはウァルスを裏切り、そのことによって部隊が全滅してしまったということになる。
ドイツ側から見れば、ラテンの民族の支配から脱却しゲルマン民族に誇りを取り戻させた英雄となる。
事実、ライン川以東の土地がローマ帝国の土地になったことはなく、アルミニウスがいなければローマはライン川以東にも進出していた可能性は高い。そうなればドイツの歴史は大きく変わった可能性がある。
時代によって変わるアルミニウス観
ある人物や芸術の評価が時代によって大きく変わるというのはどこの国の歴史でもよくあることだ。
例えば日本では徳川慶喜の評価は大きく違う。明治時代において、徳川慶喜は「二顔将軍」と言われ、歴代でも最低の将軍という扱いであった。しかし近年では徳川家でも最も優秀な将軍で、慶喜の存在が日本を先進国に押し上げたという評価があるぐらいだ。源氏物語なんかも時代によっては発禁になっていたりするし、歴史観というのは常に過去ではなく現在に左右される。
19世紀、アルミニウスの人気はすさまじかった。
理由はナポレオンである。
ナポレオン率いるフランス軍はある意味ローマ帝国の後継者と言え、それに対抗するドイツ諸侯はアルミニウスのように勇敢だという訳である。
要は反ナポレオンの旗印としてアルミニウスはドイツ救国の英雄となった訳である。その後もアルミニウスは象徴であり続け、神聖ローマ帝国解体後にできたドイツ帝国の時代には「ヘルマン記念像」が国会の議決で作られるというぐらいになる。このヘルマン象の下には「ドイツの統一は我が強さ、我が強さこそドイツの力」という銘文が彫られているという。
アルミニウス(ヘルマン)はドイツナショナリズムの象徴になったという訳だ。
ちなみに少し面白い話があって、このアルミニウスはフランスでも人気があるという。理由としてはブルボン王朝はローマ帝国の後継とみなされていて、その反逆の翼はフランス革命後のフランス人にとっても好ましかったという理由であるらしい。
さらにアルミニウスを題材にした戯曲が多数生まれていて、フランスではアルミニウスを題材にしたラブロマンスが人気であるという。
トイトブルク森以後のアルミニウス
戯曲やオペラのモチーフになるアルミニウスは、トイトブルク森以降のものであることが多い。
戦いに勝利したアルミニウスはローマの侵攻を阻止するべくゲルマン民族の一致を主張し、自らゲルマンの王になるためローマに臣従するジーゲストとの同盟を決意し、その娘であるトゥスネルデと結婚する。
ジーゲストはこれを良しとせずアルミニウス殺害を息子のジギスムントに命令するが、ジギスムントはゲルマン民族の自由とアルミニウスへの友情と父の命令の間に板挟みとなって自決してしまう。
その後両者は戦争となり、アルミニウスはジーゲストを一度は捕えるが妻の懇願を聞いて縄を解くもジーゲストによって殺されてしまったという。
どうもこの話は18世紀の劇作家ユストゥス・メーザーという人物が作った「アルミニウスの悲劇」という話の中でも出来事で、実際のアルミニウスはゲルマン民族の中でも最大多数であるマルコマンニ族との戦いに勝利した後、ゲルマン民族内部の争いにおいて負った傷がもとで命を落としたという。
トイトブルク森以降もローマ帝国側はティベリウス、ゲルマニクスと最強の将軍を送り込んできたがアルミニウスはゲルマン側の指導者として良く戦い、これを撃退したという。
しかしゲルマン人達は強大な王の誕生を望んでおらず、結局は内部分裂によって内戦状態になり、結果としてアルミニウスはそこで命を落としてしまった。
個人的なアルミニウスの評価
日本の卑弥呼や委奴国王についてわかっていないことが多いのと同様、アルミニウスについてもわからないことが多い。
特になぜローマを裏切ったのかなどは分からず、現代の史観から見て英雄となっているが、実は俗物で自己の都合により味方を入れ替えるような人物かも知れないし、トイトブルク森の戦いは味方のふりをして奇襲をかけた可能性もあるしでその実像は確かめようがない。
日本で言えば日本武尊よりも遥か昔の人物で、その分創作が入り込む余地があると言えるだろう。
ローマは常にゲルマン人の来襲に悩まされていたが、ゲルマン側から見るとローマには負けてばかりであった。特にキンブリテウトニ戦争では兵力では圧倒していたにも関わらずガイウス・マリウスには散々に打ち破られ、大規模な戦いとしてはゲルマン側の初めての勝利だったと言える。
形はどうであれ、アルミニウスがドイツの英雄であることは間違いないであろう。