最初のイングランド王アゼルスタンはもっと日本でも評価されるべき

イギリスの正式名称は「グレートブリテンおよび北部アイルランド連合王国」という非情に長いものであり、イギリスという名称は日本ぐらいであまり使われず、アメリカをUSAと呼ぶように、イギリスはユナイテッドキングダムの頭文字をとってUKと訳される。

イギリスのサッカー代表が4つの地域に分散されるように、イギリスもまたアメリカと同じようにいくつかの国からなる連合王国なのである。日本人の感覚としては少しわかりにくいが、人間の身体がいくつかの生物である細胞からできているようなものと思えばわかりやすく…ないか。

今での4つの地域に分かれているイギリスであるが、イングランド一つとってみても中々統一は果たせず、イングランドが初めて統一されたのが937年のことと中国が初めて統一されたのが紀元前221年ということを考えればかなり遅めである。

秦の始皇帝が如何にすごい人物であるかがわかる話だが、それはさておき最初にイングランドを統一し、イングランド王となったのがアゼルスタンである。

多分日本人の95%が誰?という認識だと思うが、史上初めてイングランド王の称号を用いた人物について見て行こう。

 アルフレッド大王の孫

f:id:myworldhistoryblog:20190530094428j:plain

ローマ撤退後にイギリスの地はゲルマン人の部族アングロ・サクソン族が支配し、それらの部族は7つの王国に分かれて統治されていた。しかしヴァイキングであるデーン人の大規模な襲来を受けてそれらの王国は壊滅的な被害を受け、アングロサクソン族の王国は滅亡の危機に瀕していた。

それを挽回したのがウェセックス王国のアルフレッド大王であった。彼はデーン人を追い出すとウェセックス王権を強め、「領地権利証書」を発行する権利を得た。これにより各地を治める領主の任命権を得たことになる。

その権利は嫡子のエドワードに引き継がれ、さらに孫のアゼルスタンへと継承されていった。

www.myworldhistoryblog.com

アゼルスタンは未だに襲撃してくるデーン人を追い払い、イングランド北部の都市であるヨークを占領、この頃より「イングランド王」の呼称を使うようになる。

スコットランド王を始めとした北方諸勢力はこれを不服とし南進、両軍はブルナンブルフの戦いにて激突するもアゼルスタンはこの戦いに見事勝利、グレートブリテン島での優位を完全に確立した。

アゼルスタンは祖父アルフレッドが基礎を固めた「州制」を整備し、州の下に郡、さらにその下に十人組(タイジング)を編成し、各地を治める貴族(伯)と王国から派遣される代官を次第に融合させる政策をとった。

さらに銀ペニーの鋳造を始め、これをイングランドの統一通貨とした。

秦の始皇帝は中華を統一後秦の通貨であった半両銭を中国の統一通貨とし、これにより通商が大いに盛んになったというが、それより遅れること1200年、イングランドにもようやく統一通貨が誕生した訳である。

アゼルスタンの外交政策

アゼルスタンは外交政策にも熱心であった。

彼は初代神聖ローマ皇帝となったオットー一世とフランステューダー朝の王ユーグ・カペーに自らの姉妹を嫁がせる婚姻外交を成功させ、これにより現在のイギリス、フランス、ドイツの間に同盟が結ばれることになった。

この参加国の間で同盟が結ばれるのは、この時が最初で最後である。さらにもう少し言うと、この参加国で今でも王権が続いているのはイギリスだけである。

賢人会議(ウィテナイェモート)とキリスト教

アゼルスタンの功績はこれにとどまらない。

彼は後の英国議会の基礎となる賢人会議(ウィテナイェモート)を設置した人物と言われている。

賢人会議自体はアルフレッド大王の時にすでにあったし、さらに言えば7世紀頃には既にみられたのだが、制度として整備したのはアゼルスタンであり、彼は頻繁にこの賢人会議を開いたことでも知られる。

これはイングランド全土から伯(エアルダーマン)と呼ばれる貴族を招集し、さらにはカンタベリー大司教を中心とした大教会の司祭、セインと呼ばれる豪族を招集した会議を指し、立法を中心として外交や司法などの諸問題を話し合う場であった。現在の議会制内閣の端緒であると言って良いだろう。

キリストの誕生日であるクリスマス、キリストが復活したと言われるイースター、聖霊が降臨したと言われるペンテコステの年3回開かれることになった会議で、王侯だけではなくキリスト教の司祭が多数参加していたことにも大きな特徴がある。

当時のヨーロッパにおいて、ローマ教皇を中心としたキリスト教勢力が如何に大きな力を持っていたかということがよく分かるだろう。

アゼルスタン自身はやらなかったが、彼の跡を継いでイングランド王となった甥のエドガーは、その即位に際してカンタベリー大司教を招いて大々的な戴冠式を開いている。

この戴冠式を重視してエドガーを初代イングランド王とする人もいる。

*アゼルスタンからエドガーに至るまでには3人の王がいる。

アゼルスタン自体は生涯独身で子供がなく、王位は弟のエドマンド一世が継ぐこととなった。エドガーはその息子である。

個人的なアゼルスタンの評価

実に優秀な君主であったというべきであろう。

軍事、内政、外交ともにイングランドを列強へと押し上げた人物であり、世俗権と宗教的権威をうまく結びつけて国を発展させた人物だと言え、議会制民主主義の歴史においても本来取り上げるべき人物であろう。

これほどの人物が日本では無名に近いというのも不思議な話である。

もう少し我が国でも評価されてよい人物であるように思う。

少なくともライオンハートリチャード一世よりも功績は遥かに大きい。