実は教養の高いフン族の王アッティラの生涯とカタラウヌムの戦いについて

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ゲルマン人の大移動がローマ滅亡の原因となった訳だが、そのゲルマン人の大移動はモンゴル系騎馬民族フン族の圧迫によって始まった。

ゲルマン人は凶暴で強力なフン族と戦うぐらいだったら弱体化する一方のラテン民族を相手にした方が万倍楽だと感じた訳である。

そんな凶暴種族フン族の中でも大王と言われる人物がいる。

アッティラである。

今回は、後代の創作にも数々登場し、ヨーロッパを恐怖のどん底に落としたアッティラについて見て行こう!

 アッティラ大王

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恐らくアッティラ大王と我々日本人は先祖を同じくする同一民族である。

この時代、まだ鐙などは開発されておらず、騎馬兵になるには相当な訓練を要した。蒙古系騎馬民族は遊牧民族であり、小さいころから馬にまたがって過ごしているため騎馬の扱いには慣れている。そのため非常に高い戦闘力を誇り、各時代に圧倒的な力をもって世界を席巻することになる。

紀元4世紀におけるフン族の圧迫はその最初の例だと言えるだろう。

一説には漢の時代にモンゴルにいた匈奴が移動してヨーロッパではフン族と呼ばれたという説もある。

アッティラはそんなフン族の長ルーアの甥として生まれた。

ルーア王が亡くなると兄のブレダと共に共同でフン族を統治することになり、まずは東ローマ帝国領に乗り込んだ。

*ブレダは紀元445年に亡くなったようである。

東ローマ皇帝テオドシウス2世はこれはたまらんとアッティラのもとに使節を送る。内容はフン族から逃げ出した脱走兵を返還するというものであったようだ。

使節は脱走兵と共にフン族の天幕に行き、そこでフン族の処刑を目の当たりにする。

脱走兵たちは地にひれ伏す体制にされ、そこに布をかけさせられるとその上を馬に乗ったフン族の兵士たちが歓声を上げながらなんども往復したのであった。

同様の処刑方法はチンギス・ハーン率いる蒙古軍も行っていたので、やはりフン族は蒙古と同一民族であると思われる。

この時処刑された脱走兵のほとんどがゲルマン民族であったため、東ローマ帝国に住まうゲルマン人はこれに怒りフン族に戦闘を仕掛けた。が、まるで相手にならずに一蹴されている。

恐れをなした東ローマ帝国はフン族に金塊を支払い、支配に近い同盟を結ぶことになる。

世界最強の国家はいとも簡単にモンゴルの騎馬民族にひれ伏した訳である。

東ローマ帝国からは定期的にアッティラの許に使節が送られることになり、どうやらここにキリスト教の司祭なども含まれていたようで、アッティラもその影響を少なからず受けたようである。

その際の司祭の記録によれば、アッティラは以下のような容貌であったという。

「背は低かったが頑丈な体格をしていた。顔の色はくすんだ黄色で、顔の造りは奇妙なほどに平面的であった」

まさにヨーロッパ人から見たモンゴロイドの特徴そのものである。

紀元450年、東ローマ皇帝テオドシウス2世が死んだ。

無能な皇帝の次に皇帝になったのはマルキアヌスという比較的武闘派な皇帝であった。マルキアヌスはアッティラとの同盟を破棄し、軍備の増強を開始する。

これと同時期に西ローマ帝国でも動きがあった。

西ローマ皇帝の姉であるホノリアという皇女がアッティラに婚姻を申し込んだのである。

後代「二―ベルゲンの歌」においてジークフリート亡き後のクリームヒルトがアッティラと結婚する話があるが、これがもとであろうと思う。

 騎馬民族は動きが速い。

アッティラはさっそく西ローマ帝国領へと軍を進めて行った。

あせったのは西ローマ帝国である。皇帝はホノリアを監禁しアッティラの申し出を拒否したが、アッティラは止まらない。皇女の身柄を要求しにライン川への移動を開始していた。

カタラウヌムの戦い

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ローマの敵は常にペルシャとゲルマン民族であったが、この時はローマとゲルマン民族が手を組んだ。

西ローマの実質的な指導者アエティウスは西ゴート族やフランク族と手を結び、アッティラを迎え撃った。

アッティラはオルレアンを包囲したが堅固な城壁に阻まれ、軍を会戦に向いたシャンパーニュ地方に移す。

西ローマ・ゲルマン・ガリア人連合軍も軍をシャンパーニュ地方に向け、カタラウヌムにおいて両軍の戦闘は始まった。

結果は両軍大規模な損害を出しながらローマ・ゲルマン連合軍が勝利したようである。ようであるというのは、ローマ側の消耗は激しく、これを機にゲルマン一部族であるフランク王国のガリア地方への侵攻を赦してしまうことになり、かつアッティラを追撃できるほどの軍さえ残せないほどに消耗していたからである。

一方のアッティラは軍の編成がブルグント族や東ゴート族から連れてきた兵たちであったので、消耗は実は少なかった。

のちのチンギス・ハーンもそうであるが、モンゴル兵ではなく現地で調達した兵で軍団を形成するため消耗が非常に少なかったのである。

ポエニ戦争時にハンニバルは同じことをやろうとして失敗したが、モンゴル系民族は妻子を人質にとって、モンゴル兵は戦わず軍の後ろに構えて弓を構えるという戦法をとる。この弓は敵ではなく現地で調達した兵士に向けられる。

日本における元寇においても、蒙古兵は参戦せず、その軍団は朝鮮半島の民族で形成されていた。

イタリア侵攻

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カタラウヌムの敗戦などなかったようにアッティラはその足でイタリア半島に向かった。

西ローマ帝国軍を率いるアエティウスにこれを迎え撃つ力はなく、イタリア北部は一方的に蹂躙された。

ローマ皇帝とは本来最高司令官であるインペラトールな訳だが、もはや皇帝にそのような力は残されていなかった。

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代わりに事態に対処したのがローマ法王のレオ一世であった。

レオ一世はアッティラの許に出向き、そしてアッティラを追い返すことに成功した。

キリスト教史観では神の前にアッティラがひれ伏したということになるようであるが、実際には多額の金を支払ったようである。

アッティラ側からしても変に反抗されるよりも金だけもらって帰った方が良かったのであろう。

中身はどうであろうとローマ法王が事態を収めたのは確かであった。もはや、ローマ皇帝を敬う人間はいなかった。代わりにローマ法王を敬う人が増えた。

アッティラの死

紀元453年、アッティラは突如死んだ。宴の途中で突如血を吐いて死んだのだという。

アッティラの死後フン族は急速にその勢力を失ってしまう。

フン族に法はなく、ただ指導者の命令があるだけである。

個人的なアッティラの評価

カタラウヌムでの敗戦を見るにつけ、アッティラの軍事的な才能はそこまで優れていたとも言えないと思う。

だが、フン族をまとめ上げ、ヨーロッパ中を恐怖と混乱に陥れたその力は本物であり、英雄とは言えないまでも優れた力量をもった人物ではあっただろうと思う。

ただ、その政策は終始行きあたりばったりで、局所的な戦闘には強くとも大局的な戦略眼には優れていなかったというべきであろう。

特にカタラウヌム以前にガリア地方に侵攻したのは敵に利を与えるようなもので、そのまま東ローマ帝国との闘いもしくはイタリア半島への侵攻を開始していたら敗北を経験せずに済んだかも知れない。

とはいえその予測不能性こそがフン族の怖いところで、次にどのような行動をとるかわからないから怖いのである。

カタラウヌムの戦いは視点を変えるとモンゴロイドとコーカソイドの戦いでもあった。

この戦い及び13世紀のモンゴル軍襲来においてモンゴロイドへの恐怖を感じたコーカソイドは、黄禍論なる言説を唱え、その恐怖は第二次世界大戦において最大のものとなる。

東方の果ての果て、日本というモンゴロイドの国が世界を相手に戦争を仕掛けたからである。

きっと恐怖でしかなかったであろう。

アッティラに話を戻すと、彼の与えたインパクトは強力で、小惑星の名前になったりヴェルディ作曲アッティラのモチーフになったり、ハリウッドの映画にもたびたび登場したり、気の強い人間の綽名になったりある意味大人気である。

蛮族としてのイメージが強いアッティラであるが、ゲルマン語やギリシャ語やラテン語を操れたと言われており、ギリシャやローマの文化にも精通していたと言われている。

力だけでは人はまとめられないのであろう。

「王たる者、進んで義務と責任を引き受けなければならない」

これはアッティラの遺した言葉であるが、ここにアッティラという男の全てが詰まっているのかもしれない。

少なくとも、責任を負おうとしない凡百の指導者とは器が違うと言えるだろう。