山川の用語集によればセヴェルス帝以降、そのほかの見解において遅くともアレクサンデル帝が暗殺された後のローマは軍人皇帝時代と呼ばれる時代を体験するようになる。
わずか50年の間に26人もの皇帝が出現し、そのほぼ全てが死滅してしまった時代について、本当なら26人の分の記事を書きたいところであったが、さすがにそれは苦行に近いので50年間26人まとめて記事にするぜ!
マクシミヌス・トラクスと4人の皇帝(235年から238年)
アレクサンデルセヴェルスが公然と暗殺された後、兵団に推されて皇帝になったのがトラキアのマクシミヌスことマクシミヌス・トラクスだ。
セヴェルス帝に目を駆けられて出世したいわばたたき上げの軍人で、身体は頑強にして力が強く、軍内部で行われる模擬戦において16連勝をしたのちセヴェルス帝が「この馬についてこられるか?」と行ったあとをついていきその後レスリングをして7人抜きをしたという伝説じみたエピソードを持つ。
中国の武将である呂布や楊大眼よりも強いかも知れない。
セヴェルス帝に恩義を感じていたマクシミヌスはマクリヌス帝の時にはトラキアに帰って農作業を営んでいたが、ヘリオガバルスが戻ると再びローマ軍に復帰、アレクサンデル帝が亡くなった際には対ゲルマン戦線に配備されていて、兵士たちから皇帝に推挙されることになった。
総督経験はもちろん、軍団長経験も元老院議員でもない、まさに軍人皇帝である。
62歳になるこの男の皇帝就任を元老院はすぐに承認している。
その年になっても強さは相変わらずで、ゲルマン人を大いに破る活躍を見せたのだが、ここでおかしなことが起こる。北アフリカの地で80歳になるゴルディアヌスが皇帝に就任したのだ。
そして元老院もゴルディアヌス帝の存在を認めてしまうのである。
そんな無茶苦茶なと思うが、元老院は成り上がりもののマクシミヌスよりもプラエトルやコンスルと言ったローマの要職を経験したゴルティアヌスを歓迎したらしい。
しかもゴルティアヌスの息子2人にも共同皇帝の地位を与え、マクシミヌスを国家の敵とする決議までだしてしまう。
ところがここで北アフリカにいる兵士たちがゴルディアヌスに対して攻撃を仕掛けるということが起こる。完全に元老院派と軍部に分かれている訳である。
この武装蜂起の結果ゴルディアヌスとその息子ゴルディアヌス2世が戦死、慌てた元老院は新たにバルビヌスとバビエヌスという2人の共同皇帝を立ててマクシミヌスに対抗、一方のマクシミヌスはなんとローマに向かう途中で兵団の兵士たちに襲われて死亡。
共同皇帝だったバルビヌスとバビエヌスも部下の兵士たちによって殺害される。
もう何がなんだかわからん状態だが、当時の人々もよくわからなかったに違いない。
分かっているのは。紀元238年というこの年に5人の皇帝が永遠にこの世を去ったということだろう。世界史的にみてもワーストクラスに酷い状態だ。
ゴルディアヌス3世とフィリップ・アラブス (238年から249年)
困った元老院はゴルディアヌスのもう1人の息子をローマ皇帝にしてしまう。この時まで13歳であったが、ティメジテウスという人物のおかげで軍人皇帝としては最長の6年間もの期間皇帝位にいられた。
彼の治世はササン朝とゲルマン人対策に明け暮れる日々だったが、近衛隊長官となったティメジテウスはよくやった。
だが運が悪かった。この時期にササン朝の創始者が亡くなり、ササン朝一の英雄と言われるシャープール1世が次のペルシャ王となってしまったのだ。
いくらなんでも相手が悪かった。シャープールはローマ帝国領で略奪を働き、ローマ軍を挑発した。
ローマ側はこれに対して皇帝自ら軍を率いてペルシャとの戦争を開始し、勝利した。シャープールは政治的にはやりてだが戦闘は弱かった。ただ、負けて勝つという感じの君主で、勝った方のローマ側の損害が大きくなってしまった。
特にティメジテウスの死はゴルディアヌス3世には痛手で、後ろ盾を失った皇帝はもう1人の近衛軍長官フィリップスの手の者に暗殺されてしまう。
そのままフィリップス・アラブは皇帝となり、ササン朝と戦うかと思われたがシャープル側の要求を飲んで北部メソポタミアを放棄することにした。
ってアレ?なんか前にも同じパターンを見たような…
フィリップスはすぐに暗殺された訳ではなかった。2年間ぐらいは皇帝でいられた。色々と改革じみたことをしていたようだが、全く効果もなく、この男が歴史に名を残している理由がローマ建国1000年祭りの時のローマ皇帝だからであった。
そんなことをしている間に今度は北方のゲルマン人たちが暴れだした。フィリップスは自ら出て行かず首都長官のデキウスを派遣したのだがあろうことかデキウスが兵士の推薦を受けて皇帝になってしまったのだ。
ちょっと何を言っているかわからねぇと思うが本当のことなんだ…
フィリップスとデキウスは戦いを開始する…かと思われたがフィリップス側の兵士が全員デキウスについてフィリップスは最後自殺をして死んだ。
この時代こんなんばっかなんだよなぁ…
デキウスとキリスト教弾圧とゲルマン民族の大侵攻とトレボニアス
デキウスは日本での知名度は0だがヨーロッパでは有名な皇帝である。理由はキリスト教弾圧で、今までのキリスト教弾圧は司祭などの指導者階級に絞られていたが、デキウスはついて一般市民までその対象とした訳である。
でもデキウスにとっての一番の問題はゲルマン人の侵攻だった。ローマは何百年もゲルマン人の侵攻に悩まされてきた訳であるが、この時は約30万人ともいわれるゲルマン民族達がいわば波状攻撃的に南下してきた。
マリウスのような化け物であればこれを撃退できたかも知れないが、デキウスのような人間と弱体化したローマ軍にそのような力は残されていなかった。
ゲルマン人達はローマ領内を荒らすだけ荒らしていくと自分たちの土地に帰っていった。ついでに言うとデキウスもゲルマン人との闘いでいつのまにか死んでいた。遺体は結局見つからなかったらしい。何気に異民族との闘いで初めて命を落としたローマ皇帝である。
次の皇帝にはモエシア属州総督であるトレボニアヌスが就任した。
この男はゲルマン人との講和をしたが、その弱腰な姿勢を見て兵団は激怒した。モエシア属州総督のエミリアヌスは皇帝とゲルマン人との講和をぶち壊しゲルマン民族の陣営へと攻め込んだ。そうなるとゲルマン側もさらなる侵攻を開始し、その勢いで地中海まで到達してしまうほどであった。
ゲルマン人との闘いが進むにつれて皇帝トレボニアヌスにもアエリミアヌスにも人々の不満は募っていった。代わりに支持を集めたのがすでに63歳になっていたヴァレリアヌスで、略奪に満足したゲルマン人たちが引き上げて行ったあと、この3者は互いに争いをはじめ、最後にはヴァレリアヌスが勝利した。
歴史に残る皇帝ヴァレリアヌス(253年から260年)
世界史の教科書に名前が載っている軍人皇帝は、セヴェルスやカラカラを軍人皇帝としない場合はヴァレリアヌスだけである。
なぜヴァレリアヌスが載っているか?
それは現役ローマ皇帝としては初めて、そして唯一ササン朝ペルシャの捕虜になったからである。
俺は受験生時代模試でこの人の名前を何度も書いた記憶がある。思えばこの人は1800年もの間世界中の人間から馬鹿にされ続けていたのだから可哀そうな気もする。
だが、ローマ帝国の衰退をこれ以上ないほど表されていたのがヴァレリアヌスの敗北とササン朝にとらわれたことだったのだ。しかもヴァレリアヌスは囚われの身で死んでいる。
余談だがヴァレリアヌスは三頭政治の1人クラックスと同じリキニウス一族の出身で、クラックスもパルティアとの闘いに負けて囚われそうになったが近くにいたローマ兵がそれを防ぐためにクラックスを殺害したので恥をさらすのを免れたというエピソードがある。
なんだかなぁなエピソードだけれど、クラックスが嘲笑混じる歴史名で呼ばれなかったのは確かである。
ちなみにローマ側も恥だと思ったのか、ヴァレリアヌスがどのような形で戦に負けてどうなったのかを誰も記していない。ローマ皇帝史上最も哀れな人物であるかも知れない。
皇帝ガリエヌスとローマ三国志
ヴァレリアヌスが捕まったことにより、息子のガリエヌスがローマ皇帝となった。
ガリエヌスとしてはすぐにでもササン朝との決戦に臨みたかったかも知れないが、彼はどうしてもゲルマン民族との闘いを優先しなければならなかった。
北からはゲルマン、東からはササン朝。
ローマ皇帝ササン朝に捕囚さる。
この情報を聞いて北方ゲルマン人は一気にローマ領へと雪崩こんだ。
あげくに疫病までもがローマを侵食していく。
その上さらに悲劇的なことに、ガリア属州総督であったポストゥムスが独立国家「ガリア帝国」を建国、さらには東方の最高司令官オデナトスの妻ゼノビアがパルミラの地にて「パルミラ帝国」を建設、ローマは3つに分かれてしまう。
このローマ三国志については分量が多くなるのでまた別記事に書きたいと思うが、ローマはまさに四面楚歌の状態に陥ってしまう。
ここまできたら普通は滅亡なのだが、ローマはなかなか滅びない。
皇帝ガリエヌスは兵団を整備し、経済状態をなんとか立て直し、そして自ら整備した騎兵団によって暗殺された。
彼の治世は8年間という軍人皇帝時代の中では長いものだったが、その間にローマの国力は大いに衰退し、軍団に見限られてしまったのだった。
クラウディウス・ゴティクス
ローマにはゲルマニアを制した者と言う意味のゲルマニクスやブリタニアを制したものと言う意味のブリタニクスという名前が出てくるが、この皇帝はゴート族を制したという理由でゴティクスと呼ばれる。
名前からしてローマの名門クラウディウス一族っぽいが、先祖はクラウディウス帝の時にローマ市民権を得た属州民で、父や母の名前さえ残っていない。農民出身のゴティクスは紀元268年、ローマ皇帝となった。
農民出身で皇帝になった例は中国では劉邦や洪武帝などの例があるが、ヨーロッパでは珍しい。
ある意味成り上がりな訳であるが、彼の治世は2年で終わっている。
功績は名前が表す通りゲルマン民族であるゴート族に大勝利したことだ。
ちなみにルパン3世カリオストロの城のカリオストロ伯爵はこのゴート族の末裔という話である。
ゴティクスはゴート族をローマ軍に編入させ、定住させ、農業を教えた。その結果ゴート族はローマの一員として他のゲルマン民族と戦い、戦果をあげ始める。
戦闘力も政治力もある皇帝だったが、当時流行っていた疫病のせいでゴティクスはすぐに死んでしまった。
元老院は弟のクインティルスを皇帝にしようと画策したが、次期皇帝にはアウレリアヌスという人物が兵団の推挙を受け、元老院もこれに従う。
なおクインティルスはこの件で自殺をしてしまったらしい。
軍人皇帝時代髄一の名君皇帝アウレリアヌスと3国統一(270年から275年)
軍人皇帝時代、唯一の名君と言っても良いのがこのアウレリアヌス帝であろう。
彼の治世は5年と短いが、その功績は5賢帝レベルと言っても過言ではないだろう。
アウレリアヌスを見出したのはササン朝に囚われたヴァレリアヌスで、彼はその時期ローマ最重要防衛地であるドナウ川の流域にいた。
彼はまずダキアの属州を手放すことにした。トラヤヌス帝が必死になって獲得した今のルーマニアにあたる土地だが、ダキアにかまっている場合ではないと判断したのだろう。
アウレリアヌスは東方に軍を向け、パルミラ帝国の領土となったシリアに攻め込んだ。パルミラの女王ゼノビアを捕え、その足ですぐさまガリア帝国へ軍を向ける。
ガリア帝国は戦わずしてローマに降り、ローマは再び統一されることとなった。その間現在でも残るアルレリアヌス城壁を整備するなど内政面でも活躍し、ササン朝へ攻め込む間に、これまた部下に殺される。
本当に恐ろしいのは敵ではなく味方だということをこの時代は我々に教えてくれる。
皇帝空位時代、皇帝タキトゥス、そしてプロブス
アウレリアヌスの後、5か月間ほど皇帝が決まらない時期がローマにやってきた。
今迄は皇帝を暗殺した人物がそのまま次代の皇帝に就任していたが、今回の下手人であった人物は極刑に処され、計画に加担した者たちは全員処分された。
5か月の空位時代の後に皇帝になったのは、ローマで最も有名な歴史家タキトゥスの子孫である皇帝タキトゥスであった。
皇帝になった時すでに75歳、何度も断ったらしいがついに断り切れなくなった。
タキトゥスは本気だった。彼は全ての財産を処分し、国庫に入れ、その資金で軍団を再整備した。そして憎きササン朝への進軍をしている最中で病死した・・・
次に皇帝になったのがアウレリアヌス帝の右腕と言っても良い東方最高指揮官のプロブスであった。
最初からそうすればいいのに…というのはさておき、プロブスはゲルマン民族の対応において同化政策をとり始めた。いくら征伐してもキリがないのでローマ領内に住まわせてしまえばいいと考えた訳である。これは功を奏した。軍人皇帝以後の比較的平和な次代をローマが過ごせるようになった要因であると同時にローマを滅ぼす原因ともなったゲルマン人の移住はこのように始まった訳である。
プロブスは非常に優秀な指揮官で、この時期自称皇帝が次から次へと現れ、30人僭称皇帝時代とも言われる時代になった訳だが、プロブスによって悉く制圧されている。
プロブスは先帝の無念を晴らすべくペルシャに向けて進軍を開始したが、この時代のお約束とも言ってよい死に方をした。兵士たちによる暗殺である。
カルス・ヌメリアヌス・カリヌス・そして新たな時代へ
次の皇帝は近衛長官であったカルスとなる。皇帝暗殺を防げなかった近衛隊の長官が…という気もするが、そんなことを言っている余裕はなかった。
カルスはササン朝ペルシャを大いに破る活躍を見せるも、運悪く落雷にあって死亡する。
その後は息子であるヌメリアヌスとカリヌスの共同統治となる訳だが、皇帝ヌメリアヌスは何者かに暗殺される。
そして紀元284年、皇帝カリヌスも暗殺される。
皇帝カリヌスの暗殺によってローマは闇の時代を抜ける。
血で血を洗う軍人皇帝時代は終わりをつげ、同時にローマ共和政の息吹は完全に息の根を止められる。
ローマ皇帝はもはやローマ第一の市民プリンケプスではなくなった。
時代は、新たなカリスマ性をもった強い英雄の登場を欲していた。
その声にこたえるように、次代は1人の英雄をローマに登場させることになる。
プリンキパトゥスは終わり、ローマは強力なカリスマが率いる専制君主制ドミナートゥスの時代へと突入するのである。
新生ローマ帝国の誕生である。
ロ―マは蘇る、何度でもだ!