東ローマを滅ぼし、バルカンにおける派遣を確立した征服王メフメト2世の跡を継いだのは聖者王と言われたスルタンであった。
後継者争い
父であるメフメト2世の時代に、正式に王位継承における兄弟殺しについてはイスラム法には抵触しない旨が決定された。
メフメト2世死去の報が出た際、後継者候補は2人いた。一人は33歳のバヤジットで、白羊朝との戦いにおいて優れた才能を示し、父の死去時にはアナトリア東部のアマスシャの太守として君臨していた。もう1人は21歳になるジェムで、かつてカラマン侯国が首都としていたコンヤの地を治めており、時の大宰相カラマーニー・メフメト・パシャはこちらを支持していた。
しかし大宰相はイエニチェリ軍団の支持を得られずに暗殺され、ジェムへの急使はバヤジットの手の者により握りつぶされていたこともあり、イスタンブールへはバヤジットが先に到着し、イエニチェリ軍団もこちらを支持する。
かくしてバヤジットはバヤジット2世となって即位し、ジェムの掃討命令を出す。ジェムは兄に対し共同統治を持ち掛けたが、これは跳ねのけられ、両者は対決。ジェムは敗北し、エジプトのマムルーク朝、次いでロードス島のヨハネ騎士団の元へ亡命する。
その後は巡り巡ってフランス、そしてローマ教皇のいるバチカンに移送され、その後はイタリアに侵攻してきたフランス国王シャルル8世の保護下に入るもナポリで突然の死を迎えることになった。享年35歳。
文化政策
征服王と言われた父メフメト2世とは対照的にバヤジット2世は大規模な外征を行わず文化的な内政政策を多数行った。
メフメト2世の時代にオスマン帝国は一回り大きくなったが、その分支出も増え、国家財政は必ずしもかんばかしくなかったという。
バヤジット2世の時代は大いに文化的な政策がとられ、歴史の編纂などが始まるのもこの時期である。
歴史の編纂は古代ローマや中国においては重要視されてきたが、遊牧民族であるトルコ族は歴史を遺すことにあまり積極的ではなく、オスマンの建国史などには未だわからないことが多い。この時期に歴史編纂事業に力を入れたということは、おそらくはコンスタンティノープルを占領したことでオスマン帝国にローマ帝国の文化が流入したためであると考えられる。
この時期にはアーシュクバサダーデによる「オスマン王家の歴史」やビトリスィーのよる「八天国」などの歴史書が編纂され、まさに帝国としての威容を兼ね備え始めたと言える。
また、実現こそしなかったものの、バヤジット2世はレオナルド・ダ・ヴィンチに金角湾にかけるための橋の建設を依頼したという逸話も残っている。
この時期スペインではレコンキスタによりイスラム勢力がイベリア半島から一掃された時期で、スペイン内部にいたスファラディムと呼ばれるユダヤ人が保護を求めてオスマン帝国領内に亡命してきた。このことはオスマン帝国内の知的水準を大幅に上げ、より一層の発展に寄与することになる。
なお、コロンブスがアメリカ大陸に到着したのもこの頃で、時代は大きなうねりを迎えていた。
サファヴィー朝の勃興
大航海時代を迎えていたスペインよりもさらに強大な勢力を持っていたのがペルシャに起こったサファヴィー朝で、スンニ派を信奉するオスマン帝国とシーア派を信奉するペルシャにおいて対峙は必至となっており、以降200年にわたる戦乱の火ぶたが切っておとされることになる。
サファヴィー朝初代シャーであるイスマイールはアナトリア東部にいたオスマン帝国の支配を受けないトルコ勢力を取り込み、アナトリア東部で反オスマン勢力を形成、その反乱を支援した。
バヤジット2世の王子コルクトがその鎮圧に向かうもあえなく敗退、王子アフメトが大宰相ハードゥム・アリ・パシャを伴うも大宰相が戦死するほど甚大な被害をだしながらもなんとか鎮圧、サファヴィー朝対策においては後手に回ってしまったと言えるだろう。
息子たちの後継者争い
自ら後継者争いを勝ち抜いたバヤジット2世だったが、彼が生きている間に8人の息子達による後継者争いが起る。
中でも有力であったセリムにいたっては軍を率いてイスタンブルにまで迫っており、スルタンの軍とも一戦交えている。
バヤジット2世は王子アフメトを寵愛し後継者に考えていたようだが、セリムの娘を娶った大宰相ボスタンジュバス・イスケンデル・パシャの妨害にあいイスタンブール入りできず、別の王子コルクトはイスタンブール入場は果たすもアナトリアでの失敗が響いてイエニチェリ軍団の支持を取り付けられず、結局は大宰相およびイエニチェリ軍団の支持をとりつけたセリムがスルタンになり、バヤジット2世は退位することになった。
バヤジット2世は隠遁先に向かう途中に急死しており、古来よりセリムによる暗殺説が囁かれている。
個人的なバヤジット2世の評価
歴史の編纂を含めた文化振興に励んだことや、敬虔なムスリム教徒であったことからヴェリー(聖者王)という尊称で呼ばれ、功績もあったが、軍事的な面でいうと才能があったとは言い難く、サファヴィー朝に押され、息子に退位させられるということになってしまった。
それでも黒海北西部のアッケルマンを征服し、黒海沿岸をオスマン帝国の内海とすることに成功し、領土を大きく失った訳ではなく、浪費なども行っていないため、中継ぎ君主としては非常に優秀だったと言えるだろう。
オスマン帝国はここまで8人もの優秀な君主をだしており、その持続性は世界史においてナンバー1だと言えるだろう。