東ローマ帝国最高の名将ベリサリウス

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人材の質は常にその国家の命運を分ける。

ローマ帝国があれほどまでに強大になったのも共和政、帝政と優秀な人材が出てきたからであるし、また社会構造的にどのような民族や価値観、宗教観をもったものでも活躍できるシステムが整っていたからであろう。

ホルテンシウス法やリキニウス・セクスティウス法の施行により平民でも出世できるようになっていたし、事実初代ローマ皇帝アウグストゥスは貴族の出身ではない。

時は移ろい6世紀、東だけとなったローマ帝国は再び地中海の覇者となる。

それを実現したのは歴史の教科書ではユスティニアヌス帝ということになっているが、実際には今回の主人公であるベリサリウスの功績と言ってよいであろう。

 スキピオ・アフリカヌスの再来

「ローマ衰亡史」を書いた18世紀後半のイギリス人史家エドワード・ギボンは、ベリサリウスを大スキピオの再来と評価した。

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事実ベリサリウスはスキピオよりも遥かに悪い状況であるいはそれを上回る成果を出したと言える。

そんなベリサリウスの半生は例によってわかっていない。バルカン半島の出身者であることは分かっているが、父母のこともわかっておらず、軍団に入り出世し、何らかの理由でユスティニアヌスの目に留まりいきなり司令官に抜擢されている。

彼は20代か30歳ごろにササン朝との闘いに派遣されており、530年ダラの戦いにおいて兵力有利であったササン朝に勝利するがその後531年のカリニクムの戦いにおいては敗れている。

その後532年に首都コンスタンティノープルにおいてニカの乱がおこるとこれを鎮圧、その後はヴァンダル族の支配する北アフリカへと派遣される。

ちなみにニカの乱というのは重税に対してコンスタンティノープルの市民が暴動を起こした事件で、ベリサリウスは3000人の兵でもって3万人の暴徒を鎮圧したと言われている。

トリカマルンの戦い

当時北アフリカはゲルマン民族の一部族ヴァンダル人が支配するヴァンダル王国となっていた。ベリサリウスは500隻の輸送船、92隻の軍船でもって北アフリカに侵攻を開始した。

この際ベリサリウスの率いていた兵は多く見積もっても15000人ほど、対するヴァンダル族は数としては数十万、実際に戦闘に参加したのは5万前後ではないかと言われている。

現代でいうチュニジアに上陸したベルサリウスは首都であるカルタゴに進軍、ヴァンダル王ゲルメリはこれを向かい討ち、トリカマルンの戦いが始まった。

かつて、ポエニ戦争の時はアフリカ産の騎兵をどう活用するかで勝敗がついた。それから約700年、北アフリカで結成された軍団は嘘のようにボロ負けした。

北アフリカに上陸してから制圧が完了するまでわずか14日のことであったという。

この時期の東ローマは完全に文官と武官の役割が分離していたため、制圧するまでがベリサリウスの役目であったようで、ユスティニアヌスはそのままベリサリウスにイタリアに上陸し東ゴート族を征伐せよとの命令を下した。

北イタリア侵攻

北アフリカからシチリアに渡ったベリサリウスはあっと言う間にシチリア島を制圧するとそのままレッジョやナポリを占拠し、ローマも占拠する。

しかしここでユスティニアヌス帝は宦官のナルサスをイタリア戦線に投入し、ナルサスとベルサリウスは戦略的な部分で対立してしまう。そのすきをついて東ゴート族は再びローマを占拠する。

ユスティニアヌスはここへきてようやくナルサスを解任し、その後ベルサリウスはローマの奪還に成功。

あくまで制圧をするだけが役割のベリサリウスはそのままコンスタンティノープルに戻り、凱旋式を挙行。

その足で再びササン朝ペルシャとの闘いに派遣させることになる。

失脚

失脚の原因は全く分かっていない。

ユスティニアヌス帝の嫉妬であるとも皇位簒奪を危惧してとの意見もある。

ペルシャとの闘いにおいてはベリサリウスの有利に働いていたとさえ言われているが、ベルサリウスは東方司令官の地位を解任させられている。

その後は再び侵攻を開始した東ゴート族との闘いに赴くが、兵力も補給もなにもかもが足りておらず、さすがの名将もこれを打ち破ることが出来ずにそのまま対ローマ司令官を解任となった。

その後は閑職に追いやられ、晩年にはユスティニアヌスへの謀反を企てたとして牢につながれたことさえあった。その後は釈放されたのだが、財産は没収されたようである。

ベリサリウスは565年頃亡くなったと言われているが、晩年どのように過ごしたかはわかっていない。

彼の記録は、秘書官とも言ってよいプロコピオスという人物によって記録されており、それによれば彼は大変な恐妻家であったのだという。

妻であるアントニナは夫のそばで従軍し、これをよく支えたともこれが原因で兵の心が離反したともいわれている。

ベリサリウスが北アフリカ侵攻の際、飲み水が足りなかったことがある。しかしアントニナはこれを見越しており船の底に水の樽を隠しておいたので乾きに対処できたという逸話も残っており、それ以来妻に頭が上がらなくなったのだという。

個人的なベリサリウスの評価

ベリサリウスの軍事上の才能はスキピオにさえ匹敵するレベルだと言って良いであろう。

彼は常に寡兵でもって大軍を打ち破り、カエサルやスッラなどよりもさらに悪い状態で先頭に臨まなくてはならなかった。

特にローマを占拠した時に与えられた兵力はわずか7500だったともいわれており、これが事実だとすればユスティニアヌスはベリサリウスを殺したかったのではないかとさえ思えてくる。

事実、ベリサリウスはどれだけ功績をあげても、あるいはあげればあげるほどにユスティニアヌス帝から冷遇されていった。

後世から見るに、ユスティニアヌス帝は失政が多く、重税と出費のせいでビザンツ帝国の国力を衰退させている。それでも東ローマ帝国の最大版図を実現した訳であるが、それはほとんどベルサリウスの功績と言っても良い。

ユスティニアヌスはこのことを誰よりも認識していたのかもしれない。

それゆえの嫉妬があったのはきっと確かなのだろう。あるいは力を与えすぎて皇位を狙われる可能性を考えたのかも知れない。

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それでもホノリウスがスティリコを処刑したように、ベリサリウスを処刑することはなかった。

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ユスティニアヌスはホノリウスと違い暗君でも暴君でもなかったからだ。

ベリサリウスの晩年は不遇であったが、それでも彼がビザンツ帝国最大版図を実現させたという功績はいつの時代も評価されるべきであろう。

東ローマ帝国一の名将は間違いなくこのベリサリウスなのである。