ドイツ帝国の建国者!最強の鉄血宰相オットー・フォン・ビスマルク

19世紀は激動の世紀であった。

世界各地で革命が起こり、世界中で帝国主義が猛威を振るい、超大国である中国が欧米列強によって支配されるという欧米優位の世界が誕生した訳であるが、その長い19世紀において、前半の主役はナポレオン、後半の主役はビスマルクということができるだろう。

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19世紀はナポレオンに始まりビスマルクに終わったと言っても過言ではない。

 ユンカー階級の出身者

ヨーロッパはその長い歴史において貴族政が基本であった。

しかし商工業の発展や一部の大土地所有者などが台頭し、それぞれの国家で有力な勢力を形成すうようになる。イギリスではジェントリ、フランスではブルジョワジー、そしてプロイセンではユンカーと言った具合である。

ビスマルクはマルクブランデンブルク地方にあるシェーンハウゼンの街でユンカー階級の第4子として生まれた。

その家系は14世紀までさかのぼれるほど由緒正しき家柄であったようで、父親はプロイセンの騎兵将校を務めた後で故郷に戻って大規模農場の経営を行っていた。両親は正反対な性格であったらしく、これがビスマルクの持つ二面性につながったと指摘する専門家は少なくない。

父が典型的なユンカーであるのに対し母は代々学者を輩出したメンケン家の出身で、その父はプロイセンのフリードリヒ大王に仕え官房顧問官を務めた人物であり、現代風に言うならば上級国民と言ってよい階級の出身だった。

ビスマルクは生まれながらにして伝統的なユンカー階級と貴族階級世界の融合を体験しており、若い頃は中々それをうまく自分の中で処理することができなかったようである。

ビスマルクが生まれたのは1815年の4月、ちょうどナポレオンがこれからワーテルローの戦いに臨む時であった。結果から言えばナポレオンは連合軍に敗北し、二度と政権を握ることは出来なかった訳だが、その影響力は計り知れず、特にドイツにおいては神聖ローマ帝国が解体され、ドイツ連邦が形成されていくことになる。

ナポレオン亡き後のドイツは大国であるオーストリアを中心とする大ドイツ主義とプロイセンを中心とする小ドイツ主義が対立し続けることになり、35の王国と共に大きな変革の時期を迎えることになる次期であった。

結論から言えばこの変革に終止符を打った人物こそがビスマルクであったのだ。

しかし学生の頃のビスマルクは将来そのような人物になるような片りんなど見せない人物であった。

教育熱心な母の方針により、6歳の時よりビスマルクはベルリンにある寄宿制の学校であるプラーマン寄宿学校に入る。

ビスマルクは後にこの時期のことを「幼年時代を台無しにされた」「まるで監獄のようであった」と述懐しており、12歳の時には中等教育機関であるギナジウムに進学し、この時期に英語やフランス語などを身に着けたようである。後の外交家ビスマルクの萌芽はこの辺りにあるのかも知れない。

17歳の時にゲッティン大学に進学すると、まるでたがが外れたように遊び惚けるようになり、酒と決闘に明け暮れ大学の授業にはあまり出ない生活を送るようになっていった。

それでもビスマルクは歴史の授業だけは熱心に受けていたと言われていて、そのことが将来の宰相ビスマルクを生み出す下地になったのかも知れない。

国家官僚になりそこなったビスマルク

20歳の時にビルマルクは国家官吏登用試験の一次試験を突破し、ベルリン裁判所に勤務することになった。しかしそこでの勤務態度は決して良い物ではなく、映画男はつらいよ並に恋愛と失恋を繰り返し、そのたびに借金を作っては無断欠勤を繰り返していたという。

さすがに裁判所はクビになり、ポツダム県庁に務めたり兵役に就いたりするのだが、結局は父の跡を継ぎ農場経営に着手するようになる。

農場経営者としては優秀だったようで、ビスマルクは瞬く間に借財の返済を終える。しかし彼は「破天荒なビスマルク」と言われており、周りのユンカーたちとはあまり折り合いがよくなかったらしい。

ビスマルクという器を考えれば、ユンカーや官僚という入れ物は小さすぎたのかも知れない。

1847年、結婚したビスマルクは32歳で議員となり、その激動にその身を投じてゆくのだった。

宰相になるまで

ビスマルクが議員になった翌年、ベルリンで3月革命が起きる。

アメリカでゴールドラッシュが起こった1848年は、世界的に激動の年であった。フランスでは2月革命が起こり、プロイセンでは3月革命が起こる。

原因は1815年に約束されていた憲法制定と国会の設立が果たされないことであった。

日本で勤王佐幕論が展開されている頃、ドイツやフランスでも同様の動きがあったのである。

当時のプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世は憲法の制定を拒否、同時に経済危機も起こり3月革命が発生した。

国王は内閣の形成を約束し、事態は収拾されることになり、その中をビスマルクは王党派の先鋒として行動したという。このことが後にビスマルクに栄光をもたらすことになる。

ビスマルクは自由主義の嵐が起こる欧州において、徹底して勤王主義者であった。

結論から言えばビスマルクがプロイセンの宰相になったのはこのためである。

宰相ビスマルク

後の鉄血宰相のイメージから考えると意外であるが、ビスマルクが宰相になったのは国王に忠実だったからである。イエスマンであったと言ってもよいかも知れない。

議員としてのビスマルクは一貫してオーストリアの影響を排除し、祖国プロイセンを中心としたドイツを作る小ドイツ主義を作ることで、それは元々持っていた意見というよりもフランクフルトに外交官として赴任してからそうなったという。

実際にオーストリアは大国であることから不遜な態度でいたらしく、ビスマルクにはそれが屈辱でならなかったという。

なので宰相になる前後はオーストリアに対抗するためにフランスのルイ・ナポレオンに接近していたりもする。ビスマルクは良くも悪くもかなり独断的な人間で、1人で何でも決めてしまう傾向があったようだ。

しかしそれでも国王の命令にはよく従ったため、新しく国王になったヴィルヘルム1世の信任を得ており、1862年、ついにはプロイセン王国の首相に任命された。

首相になるとビスマルクは有名な「鉄と血演説」をし、「鉄血宰相」と呼ばれるようになる。

実はビスマルクが評価されるのは宰相を引退してからだという話があり、この時ビスマルクの首相就任にプロイセンはかなり冷ややかだったという。

お隣フランスでは王政が妥当され自由主義の風が吹いているのにドイツではいまだに王族が政治を握っていたのだから当たり前だろう。ビスマルクにしても自由主義を採用する気はなく、王政の維持を主張し、あまつさえ革命などを誤りだったと演説したのだからさもありなんである。

有名な「鉄血演説」であるが、実は明確な失政だったと言え、これ以降自由主義派で占められる議会とビスマルクは恒久的な争いを繰り広げることになる。

この時期のドイツは非常に複雑な状況で、商工業が飛躍的に発展したために人口なども爆発的に増え、国力もまたそれに比例していたが、政治的には自由主義を標榜する国民とそれを王族や宰相が上から押さえつけると言った状態であった。

そこでビスマルクはそういった不満の声をそらすためにも戦争という手段をとることにした。

デンマーク戦争(第二次スリースヴィ戦争)

乳牛のホルシュタイン種で有名なホルシュタイン地方であるが、伝統的にドイツ系国民が多いにも関わらずこの時はデンマーク領であった。

より正確にはホルシュタイン公国とデンマークとの同君連合であったのだが、ここにデンマークの後継者問題が絡んできた。

実は1848年にホルシュタイン地方の帰属をめぐりデンマークとプロイセンの間に戦争が起こっているのだが(スリースヴィ戦争)、この時はロシアとイギリスの介入があり、イギリスで結ばれたロンドン条約によってプロイセンは軍を引いたという経緯がある。

1863年、デンマーク王フレゼリック7世が死んだ。

跡を継いだのがクリスチャン9世という人物だったのだが、この人物はフレゼリック7世の姪の夫であった。ドイツでは女系の王は認められていない。そこでアウステルベンブルク家のフリードリヒ8世が男系後継を主張したことによりドイツ各邦はこれを支持。

ビスマルクはこれに対し、クリスチャン9世のデンマーク王即位はロンドン条約に則り正当と認めるが、シュレスヴィヒを併合したのは条約違反であるとした。

このことによってビスマルクは国際法を遵守する構えを見せ、それによりイギリスやロシアなどはこの問題に介入できなくなったのである。

この辺りはビスマルクの外交感覚のなせる業であろう。外交官としての経験が生き、語学に堪能であることが功を奏したと言える。

もっとも、実はドイツ連邦内部ではビスマルクのこの措置に対しては不満の声が多かった。なにせドイツ連邦はフリードリヒ8世の即位こそが正当だと主張していたからであり、ビスマルクはこのことを完全に無視したからである。なのでデンマークと戦争になった際にはドイツ連邦の各邦はオーストリアとプロイセンを除いて戦争に参加しなかった。

とはいえデンマークが単独でプロイセンに抗う術はなかった。

シュレスヴィヒとホルシュタインはドイツに帰属することになる。

プロイセンオーストリア戦争(普墺戦争)

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デンマーク戦争の際には協調していたが、大ドイツと小ドイツの問題が解決した訳ではない。ドイツ連邦内における35の国の中で、プロイセンとオーストリアの存在は圧倒的であった。

両雄並び立たず。どこかのタイミングで両国の間には戦争がおきていたことだろう。

そのタイミングがビスマルクの時代に来たのである。

実はビスマルクは当初オーストリアとの戦争に反対していた。陸軍相のローンや軍参謀総長のモルトケなどはオーストリアとの開戦を主張していたが、ビスマルクはそれに反対した。理由はフランスの動向である。

当時のフランスはナポレオン・ボナパルトの甥であるルイ・ナポレオンがナポレオン3世として皇帝を名乗っており、それを警戒したビスマルクはオーストリアとの間にガスタイン協定を結んでいる。

このことに対しプロイセン国内は大きく反発しており、それでもビスマルクはオーストリアとの戦争には踏み切らなかった。

当のオーストリア国内でもこのガスタイン協定への反発は強く、反プロイセンの声は次第に大きくなっていく。

このような中で両国の関係はもはや戦争を避けられない事態となり、オーストリアではプロイセン相手に戦争をすることが閣議決定し、プロイセンでも王室会議が開かれてオーストリアとの戦争が決まった。

オーストリアはフランスとの間に秘密同盟を結ぶとガスタイン協定を破棄、両国は戦争状態に突入した。

普墺戦争は別名「7週間戦争」とも呼ばれる。これはたったの7週間でプロイセンが圧勝したからだ。

これはモルトケの作戦が功を奏した結果だと言われており、プロイセン軍は最初にオーストリア側についたハノーヴァー王国、ザクセン王国、カッセル選帝侯国を一気に撃破すると自由都市フランクフルトを占領し、3方向からオーストリアに向けて進軍、ザドヴァの戦いにてオーストリア軍を撃破すると大勢は決した。ニコルスブルクで仮講和が、その1月後にはプラハ講和条約が結ばれることになった。

これほどまでに短期決戦になったのはプロイセン側が電信設備や鉄道などの最新設備を利用したこと及び新式のドライゼ銃を導入したためであると言われている。

さらにはビスマルクが講和を急いだことも短期的に戦争が終わった原因であり、プラハ条約によりナポレオンが作りしドイツ連邦は解体、新しくプロイセンを中心とした北ドイツ連邦がここに誕生したのであった。

この戦争ではオーストリア側は領土の縮小はなく、シュスヴィヒ、ホルシュタインはプロイセンの領土に、賠償金は2000万ターラーに決定した。これはかなりオーストリア側に寛大な措置であったという。

なおこの講和はビスマルクが国内やヴィルヘルム一世の戦争継続の声を抑えての独断であったという。

オーストリアとの戦争後、ビスマルクは北ドイツ連邦の首相になるが、体調を著しく崩してしまい療養生活に入る。

普仏戦争

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結局のところビスマルクの敵はフランスでありナポレオン3世であった。

普仏戦争の直接の原因はルクセンブルク問題に求められる。

現在でもベネルクス3国の1つであるルクセンブルクの帰属をめぐってプロイセンとフランスは対立していた。

フランスはビスマルクの療養中にオランダとの秘密協定でルクセンブルク公国を購入することを決定していたのだが、プロイセンを恐れたオランダがこの交渉をストップさせ、たプロイセン王の同意なしにルクセンブルクを領土としない旨を表明したのだが、フランスはルクセンブルクの購入を発表してしまう。

この事態にイギリスとロシアが仲介に立ち、ロンドンで会議が開かれ、ルクセンブルクが永世中立国となることで所謂ルクセンブルク危機は回避された。

しかしその後スペインで政変が起こる。

女王イザベラ2世が軍部で起こったクーデーターによりスペインを追放されると次のスペイン王をホーエンツォレルン家から招こうという話になったのである。ホーエンツェレルン家はプロイセンの王族であり、ここにドイツ系の王朝が誕生すればフランスはまさに挟み撃ちの状態になってしまう。

猛抗議の結果スペイン王にホーエンツォレルン家の人物がつく話はなくなり、フランスはプロイセン王室に対しスペインの王座にはホーエンツォレルン家の人物が就かないという確約書の提出を求めた。

世に言う「エムス電報」な訳であるが、ビスマルクはこの時に出された電報を自己に都合の良いように要約して世論に出したのである。

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これによりプロイセンの反フランスの機運は高まり、ナポレオン3世はもはや戦争に勝利する以外の方法で政権を維持することは不可能な状態にまで追い込まれてしまった。

1870年7月19日、フランス側の宣戦布告により歴史に名を残す普仏戦争が始まったのであった。

普仏戦争はフランスにとって歴史的な大敗戦であった。

過去を見れば、フランスが戦争に敗北したことは何度もあった。しかし首都パリがドイツ人によって陥落するのは初めてであった。プロイセンは圧倒的であった。ナポレオン戦争時、プロイセンはまるでフランス軍には歯が立たなかった。しかし60年の時を経て、プロイセンは強くなってしまっていた。

フランクフルト講和条約

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ドイツ側のフランスへの要求は苛烈だった。

アルザス地方・ロレーヌ地方はドイツに割譲され、50億フランという途方もない額の賠償金が課された。オーストリアに対しての寛大な措置が嘘のような要求である。

この時のビスマルクの措置がフランスとドイツの歴史を、いや、世界の歴史を大きく変えてしまうことになる。

ドイツ帝国の成立

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1870年、ドイツ帝国が成立した。初代皇帝にはプロイセン王ヴィルヘルム1世が就任し、王はカイザー(皇帝)になった。

カイザーの地位は神聖ローマ帝国解体以来の使用であり、元を辿ればローマ帝国にさかのぼることができ、ご存知のようにカエサルのドイツ語読みである。

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皇帝の即位はフランスパリのヴェルサイユ宮殿で行われ、ドイツ帝国憲法が発布された。

日本の大日本帝国憲法がこのドイツ憲法を模倣して作られたことは有名である。

ドイツ帝国の首相となったビスマルクは貨幣の統一、様々な関税の引き下げ、中央銀行の創設、法律と裁判制度の統一化と言った諸政策を行い、ドイツを文字通りの国家へと変貌させた。

始皇帝の中国統一から2000年、ドイツの統一がようやく完成された訳である。

文化闘争

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ビスマルクを語る上で避けて通れないのが「文化闘争」である。

この言葉はドイツ医学会の重鎮にして自由主義派議員でもあったルードルフ・ヒルヒョウという人物の「「カトリック勢力との対決はドイツ国民の文化を守るための闘争である」と言った演説から取られた言葉で、その演説の通りドイツ国内におけるカトリック教徒の弾圧である。

マルティンルターが1517年に宗教改革を行って以来既に300年以上が経っていたが、ヨーロッパにおける宗教問題は解決していなかった。そもそもこの問題は現在でも解決していない。

この時期、ローマ教皇を中心とするローマカトリック教会は近代化を徹底的に糾弾していた。特に自由主義に対しては聖書の教えと反すると言って激しく対立姿勢を露わにし、ドイツのみならず各国の自由主義がローマ教皇と激しく対立する事態となっていた。

もとよりローマ教皇とは対決姿勢であったドイツであるが、プロイセンだけで見ても30%以上の住民がカトリック教徒であり、バイエルンなどではその割合は70%を超えていたのである。

ビスマルクはカトリック教徒に弾圧を加えるべくイエズス会禁止法、聖職者の国外追放に関する法律、婚姻法などを定めて徹底的にカトリックの抑制に奮戦した。

さらには学校からカトリックを排除すべく学校監督法が制定され、カトリック教徒への助成金は全て停止、医療分野を除くすべての修道院は解散となった。

やるとなったら徹底的にやるのがビスマルクである。

「我々はカノッサへは行かぬ!」

ビスマルクはそう言ってカトリックとの対決を制していったのである。

しかし弾圧されればされるほど強くなるのがカトリックである。

かつてローマで誕生したキリスト教カトリックは弾圧されればされるほどその勢いを増し、信徒を広げていき、ついにはヨーロッパを支配していったのである。

カトリック教徒は団結し、政治の世界に打って出た。その結果全議席の3分の1はカトリック教徒が占めるようになっていったのである。

ビルマルクはローマ教皇が変わったのを境にカトリック教徒への締め付けを弱めるのであった。

社会主義者鎮圧法

文化闘争と並んで有名なのが社会主義者との戦いである。

ドイツはある意味社会主義の本場である。共産主義宣言を書いたカール・マルクスはドイツ人であり、マルクス主義者たちが作った社会主義労働者党は大きな力を持つようになっていった。

ビスマルクはこういった動きに出版法や結社法などを利用して弾圧を加えて行ったのであるが、社会主義労働者党は議席を伸ばしていった。

ビスマルクはこれに対し社会主義者を取り締まるための法案を議会に提出するが圧倒的大差で否決されてしまう。ビスマルクはそれに対し皇帝暗殺未遂事件などを利用してマスコミを通じて社会不安をあおり、議会を解散させて「社会主義者鎮圧法」を力技で通過させてしまう。

当初は2年間の期限付きであったが、結局4度に渡って延長され、ビスマルクが政権を握っている間はずっと有効な法律として機能した。この法律により1500名が禁固刑になり、900人ほどが追放の憂き目にあったという。

しかし皮肉なことにこちらも弾圧すればするほど抵抗も強固になり、社会主義労働者党は議席を伸ばし続けることになる。

社会政策とビスマルク外交

ビスマルクはやたらと戦闘的なイメージがあるが、社会主義者を抑えるために各種の社会政策も行っている。

現在でも色々問題となっている強制加入型の社会保障制度を確立させたのはビスマルクである。

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苛烈な「社会主義者鎮圧法」を制定する一方で社会福祉を充実させた政策は「飴と鞭」と呼ばれ、ビスマルクの内政を代表する言葉となった。

さらにビスマルクはバルカン半島やロシア、トルコ間の問題などに首を突っ込み、ベルリン会議を開くなど「誠実な仲買人」と呼ばれるように国際的な調停役を引き受けた。このことにより多くの国がオスマン帝国から独立することになり、ドイツの国際的な地位が向上していくことになる。

宰相引退

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1888年にヴィルヘルム1世が崩御した時からビスマルクの時代は終わりに向かうことになった。後を継いだヴィルヘルム2世とは折り合いが悪く、1890年には宰相の地位を引退し、1894年に妻のヨハンナが亡くなると急速に衰弱し、1898年には静かに眠ったままこの世に帰ってくることはなかった。

享年83歳。

最後の言葉は「私のヨハンナに会えるように」であったという。

個人的なビスマルクの評価

世界史には様々な人物がいるが、ビスマルクは始皇帝に並んで評価しにくい人物である。

正の面も多くあれば負の面も多くある。

負の面は徹底的にフランスを痛めつけてしまった点である。

普仏戦争であまりにもフランスに苛烈な仕打ちをした結果、フランス人に反ドイツ感情を植え付けてしまい、その結果1次大戦後のヴェルサイユ体制を作ってしまった。そしてその体制がナチスを生み出し、ヒトラーという名の怪物を生み出したことは誰にも否めない事実であろう。

ビスマルクなくしてヒトラーなしなのである。

1次大戦も2次大戦も発端はドイツであり、両方ともドイツ対世界の戦争なのである。翻って考えるに、二度の大戦はビスマルクがいたから起きたという点も否定できない要素であろう。

自由主義を排除し、上からの改革を行ったことで軍国主義国ドイツ帝国を作り出したのはビスマルクに他ならない。

しかし今日まで繁栄が続くドイツを作ったという面で言えば、工業大国ドイツを作ったのもまたビスマルクなのである。

デンマークに勝ち、オーストリアに勝ち、フランスに勝ち、ドイツ帝国を作った。その影響力はすさまじく、同じように近代化を目指す日本に大きな影響を与えた。大日本帝国はそのほぼ全てをドイツ帝国を真似て作ったと言っても良いほどドイツの政治や国家体制を参考にしている。

この時期のドイツは空前の繁栄を遂げ、あらゆる分野で世界をリードしていた。それもまたビスマルクの功績だと言えるのだ。

善か悪か、それは簡単に言い切ることは出来ない。良い影響なのか悪い影響なのか、それもどちらとも言い切れないが、ビスマルクという1人の男の存在が世界に大きな影響を与えたことは間違いのない事実であろう。