日本での知名度は0に近いがローマ第2の父とも呼ばれているのがマルクス・フリウス・カミルスである。
今回は山川の教科書にも一切出てこないがローマ史において非常に重要なカミルスについて記事にしたいと思う。
独裁官に5度輝く
ローマの政体は共和国制に移行して以降2人の執政官と元老院が政治を行う仕組みになっていた。実に民主的と言える反面、急を要する場合には意思決定に時間がかかるという欠点があった。現代の日本なんかは完全にこれだし、多くの大企業がこの状態に陥っている。海外で伸びている企業はこの意思決定が非常に速い。
ローマが仮に日本の大企業のように意思決定に時間をかけていたらすぐに滅んでいただろう。この頃のローマは決して大国ではなく吹けば飛ぶような国であったのだ。
そこでローマでは急を要する場合においてディクタトルと言われる独裁官を置くことにしていた。
独裁官の人気は半年と短いので独裁をする可能性は低かった。このような柔軟な政体を採用できる点がローマの強みだったと言えるであろう。
独裁官に任命される人物はかなりの信頼と能力を要求された。国の危機に対応できる能力者なのだから当たり前ではあるが。
カミルスはその独裁官に5度も任命された。
彼の功績はエトルリア人との闘いに勝利したことにある。
ローマの建国当初は北はエトルリア、南はギリシャ諸勢力に挟まれ細々と生きていた都市国家だったが、今やエトルリアと肩を並べ、それを攻略することが可能となったのである。
ローマ執政官であるコンスルに任じられたカミルスはエトルリアの都市であるウェイイの攻略に成功する。
この都は長年ローマが攻略できなかった都市で、この時のローマよりも数段都市としての機能は上であった。
また、この時期より台頭してきた平民階級は貴族政力の強いローマよりもウェイイを都とすることを望み、それに反対するカミルスを追放してしまう。
カミルスは非常に優秀な人間であったが、優秀な人間が必ずしも人気がある訳ではない。ローマ2代皇帝ティベリウスなどはその典型例であろう。
ウェイイ攻略の際に冬の陣営で過ごすことを強要されたことを恨んでいたという話もある。
カミルスはウェイイ攻略の際に得た戦利品の使途が不明であるというでっちあげの罪で裁判にかけられそうになる。
当時のローマでは自主的にローマを去ったものは罪には問わないという不思議な風習があったためカミルスは自主的にローマを去ることにした。
ローマ最大の危機!ガリア人来襲!!
共和政ローマにおいて最大の危機と言えば紀元前390年に起きたガリア人来襲であろう。
ガリア人は当時のフランス一帯に住んでいた人間たちの総称で、現在ではケルト人と言う名で呼ばれている。カエサルのガリア戦記に登場する民族で、古くはアーサー王物語の主人公キング・アーサーもケルト人であった。現代ではアイルランドに住む民族で、世界的歌手のエンヤなどが有名である。
このケルト人が来襲してきた際、ローマは散々に打ち負かされ、ローマの半分を占領されるという事態に陥る。
ロムルスが建国して以来ローマが直接攻め込まれたのはこの時が初めてで、二度目は800年後の紀元410年の話である。
ローマはケルト人に莫大な賠償金を払うことでなんとか急場を凌いだが、やられっぱなしはローマ人の気質ではない。
急いでカミルスを呼び寄せたローマは即座にケルト陣営に攻め上り、あっという間にケルト人を蹴散らしてしまったという。
この時カミルスは「ローマは金ではなく、剣でお返しする」と言い放ったという。
これはローマの基本方針となり、以降ローマが捕虜に身代金を払ったという事実はない。
ケルト人によって散々に破壊されてしまったローマ。周辺諸国はこれを好機ととらえ攻め上ってくる。
されどカミルスは周辺諸国との戦闘に悉く勝利し、4度の凱旋式を行いローマの威容を見事に取り戻したのである。