軍人皇帝時代のローマ皇帝はいずれも不慮の死を遂げており、暗殺や病死など様々であるが、中には落雷に打たれて亡くなったカルスのような人物もいる。
ササン朝を破った皇帝
ローマには5つの屈辱的な敗北があると言われる。
最初は紀元前4世紀頃にローマが半分ほどガリア人に占領された件。
これはローマ第2の建国者とも呼ばれるカミルスによって失った領土を取り戻すことが出来た。
次は紀元前3世紀頃に起きたサムニウム戦争におけるカウディウムの屈辱。これも最終的にサムニウム戦争には勝利できた。
3つ目は紀元前3世紀に起きた第二次ポエニ戦争におけるカンネの戦い。ハンニバルに大いにやられはしたが、最終的にスキピオ・アフリカヌスによってハンニバルは撃破された。
4つ目は3頭政治時代のクラッススの敗戦で敵はペルシャの覇者パルティア。5回目は3世紀後半のヴァレリアヌス捕縛で相手はペルシャの覇者ササン朝。
ローマはペルシャに対してのリベンジを果たしていなかった。
そんなササン朝を大いに破ったのがこのカルス皇帝なので、もう少し評価されても良いような気もするのだが、彼はペルシャに侵攻している途中で落雷に遭って死ぬという大変な不運に見舞われた。
ローマではギリシャ同様主神には雷の神ユピテルを信奉していたので、雷に打たれるというのはまさに天罰を受けた訳であった。
マルクス・アウレリウス・カルス
カルスはガリア地方のナルボという都市で生まれ、前皇帝プロブスの時代には近衛長官の地位にいたことが分かっている。プロブスは配下の兵士によって暗殺された訳であるが、それにカルスが関与していたかどうかはわからない。関与していなかった可能性の方が高いが、もはや時代はプロブスという皇帝に興味がなかったようである。
カルスは皇帝となり、マルクス・アウレリウス・カルスという名前を名乗った。アウレリウス帝のように元老院を重視した政治を行うという宣言でもあったのだが、それはフリだけで相変わらず軍事力を背景にした武断政治をおこなっていた。
プロブス帝の路線を引き継いでカルスはペルシャへと軍を進めた。その際長男であるカリヌスと次男のヌメアヌスを共同皇帝に任命し、ペルシャ戦役は連戦連勝の快進撃を続けた。
この時ササン朝側はローマ以上の混乱期にあったと言われており、ローマが失っていたメソポタミア地方を取り戻すことに成功している。そのまま軍を進めてササン朝の首都クテシフォンまで軍を進めこれを占領、そのままササン朝を滅亡させそうな勢いであったが、冒頭で述べた通り落雷にあって死んだ。
後を継いだ息子たちはあっけなく暗殺され、そのことがローマに新たな光をもたらすのであったが、それはまだ先の話である。