フランス革命3大指導者の1人!ジョルジュ・ジャック・ダントン

フランス革命には、3大指導者と言われる人物たちがいる。

ジョルジュ・ダントンはそう言った人物の一人である。

 勇気が、常に勇気が、さらに勇気が必要なのだ

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1759年、シャンパーニュ地方で生まれたダントンは、厚い胸板と広い肩幅を持った堂々たる体躯の人物で、声はよく通り、常に輝く光をまとったような人物であったという。

子供の頃には牛の角に突かれる、天然痘にかかったことで顔にアバタができるなどの受難に遭うが、豪放磊落なダントンはそれを恥じることもなく、常に堂々としていた。革命前は弁護士として活動しており、1789年にフランス革命が起こるとすぐにジャコバンクラブに入り、一時的にイギリスに亡命するもすぐに戻ってきてテュイルリー宮殿襲撃後はジロンド派が占める内閣の中にあって唯一ジャコバン派から大臣になることに成功した。

ダントンは党派を超えて愛される人物で、特に演説の才に秀でており、敗戦が続き落ち込むフランス国民に対して「我々には勇気が、常に勇気が、更に勇気が必要なのだ!そうすれば救われる!」と励ましたのはフランス革命のハイライトの1つである。

この演説に勇気づけられたフランス国民の士気は上がり、近代的装備を身にまとい、専門的な訓練を受けたオーストリア軍に対しヴァルミーの戦いで勝利するにいたる。

ジャコバン派らしく反王政派で、国王裁判の際にはルイ16世の処刑に賛成票を入れている。国王裁判はわずか1票差で決まっているため、その1票は非常に大きかったと言えるだろう。

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この事件を機にジャコバン派とジロンド派の戦いは激しさを増すことになる。

ジロンド派とジャコバン派の争い

ダントンはフランス国民同士の同士討ちを避けたいと願っており、ジロンド派の実質的な代表ロラン夫人に対して融和を申し出ていたが、ジロンド派側はこれを拒否、これによってジロンド派とジャコバン派の武力衝突は避けられない形となった。

ロラン夫人はダントンを徹底的に嫌っていて、ダントンは容姿が良いとは言えず、女性好きでだらしない性格をしていたことから普段からの嫌悪がこの決定をしたと言われている。

さらにロラン夫人をはじめジロンド派の面々は「9月虐殺事件」の犯人をダントンだと疑っており、それも交渉を難航させた原因であると言われている。

先に攻撃を仕掛けたのはジロンド派であった。

ジロンド派はジャコバン派の有力者マーラーを革命裁判所にかけた。当時の革命裁判所はまだジャコバン派が支配するものではなかったが、マーラーはここで無罪を勝ち取り、ジャコバン派は勢いづいた。

このままではまずいと思ったのかジロンド派はジャコバン派の指導者の1人エベールを逮捕する。

しかしこれは全くの無意味であった。この時期フランス国内の物価は庶民生活を崩壊させるレベルで高騰しており、既に議会で多数派であるジロンド派は民衆の支持を失っていたのだ。

反面ジャコバン派は最高価格令を出して物価の統制に乗り出そうとしており、民衆はそれを邪魔しようとしているジロンド派への武力攻撃を始めていた。

怒れる民衆は国会を包囲し、ジロンド派の議員達29人は国会を追放、21名は革命裁判所にかけられることになった。

そしてジロンド派に代わりジャコバン派がフランスの実権を握ったのである。

恐怖政治とダントンの死

ジャコバン派は実質的にロベスピールの独裁政であった。ロベスピエールは恐怖政治を展開し、ジロンド派の残党を容赦なく処刑した。ジロンド派じゃなくても処刑した。自分に反抗するものは処刑した。今は反抗しなくても処刑した。完全に狂気が支配していた。

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ダントンはロベスピエールの凶行を止めるべく比較的寛容なダントン派を結成、これがロベスピエールの逆鱗に触れついにダントンも処刑されることになった。

処刑される際にもダントンは堂々としていた。そして最後にそのよく通る大声でこういったという。

「ロベスピエール、次は貴様の番だぞ」

1794年4月5日、ダントンは死んだ。まだ34歳であった。