ローマ帝国中興の祖!最後の軍人皇帝ディオクレティアヌスの生涯と評価について!

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世界の歴史において、ある人物の評価が変わることはよくある。

例えばソ連のスターリンなんかは西側からは恐怖の暴君としか思われていないが、ロシアでは栄光の時代を作った英雄として評価されている。毛沢東もそうだし、今自分がいる位置がその評価を決めると言えるだろう。

そういった意味で歴代ローマ皇帝は長い間不当に評価を貶められてきた節がある。

理由はキリスト教が世界を制圧し、キリスト教史観が支配的となったことによる。

歴代ローマ皇帝はキリストを処刑した存在であり、キリスト教を迫害し続けてきた存在である訳で、まさに悪の帝国だったわけだ。

あれだけヴェルギリウスを尊敬していたダンテでさえ、キリスト教徒ではなかったという理由だけでヴェルギリウスを地獄に落としている。

そしてそのあおりを最も受けたのがディオクレティアヌス帝と言える。

なにせ彼はキリスト教に最後の弾圧を加えた人物だったのだから。

 軍人皇帝時代を終わらせた男

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ディオクレティアヌス帝の詳しい生まれは分かっていない。

歴史というのは不思議なものだ。ディオクレティアヌス帝は生前、歴史を遺すことに熱心ではなかった。そのため、その300年以上前の人物であるユリウス・カエサルの方が分かっていることが多い。

彼はバルカン半島のクロアチアの生まれであることは分かっているが、その出生については驚くほどわかっていない。皇帝になるほどの人物なのに父や母の名前さえわかっていない。わかっているのは彼はいつの間にか近衛軍団長官にまで昇りつめており、ヌメリアヌス帝の死後皇帝になったということだ。

ヌメリアヌス帝はササン朝との闘いに勝利するも落雷にあうという不幸な死に方をしたカルス帝の息子で、その死は明らかに暗殺であった。

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近衛隊長だったディオクレスはもう1人の近衛隊長官であったルキウス・フラウティウスという人物を犯人とし処刑、そのまま皇帝ディオクレティアヌスとして即位した。

ディオクレティアヌスが先帝の暗殺に加担していたかどうかは分かっていない。

ディオクレティアヌスは突如雷光の如く世界史に現れた人物で、アウレリアヌスやプロブス、カルスと言った軍人皇帝達の陣営に参加していたはずなのに、その辺りで活躍した形跡が全くなく、突如近衛長官として出てきたかと思えば皇帝になっている。

まるで、時代が彼を選んだかのようである。

ディオクレティアヌス自体が戦闘に強いかどうかはなので不明である。不明であるが、彼にはマクシミアヌスという名の友人がおり、この人物は戦闘に長けていた。そして恐ろしいほどに忠実なイエスマンであった。マクシミアヌスがその生涯においてディオクレティアヌスに逆らったことは一度もない。

ディオクレティアヌスはマクシミアヌスを皇帝にした。

これまでも例えばアウレリウス帝がコンモドゥスを共同皇帝にしたことはあったが、これは後継者にするという意味で、ディオクレティアヌス帝の場合は完全に分割統治であった。

二頭政治(デュアルキア)

マクシミアヌスは帝国の西方を統治し、ディオクレティアヌスは現在のトルコにあるニコメディアに首都を置き東側を統治するという所謂二頭政治(デュアルキア)を行う。

皇帝に就任してすぐにこれを行っていることから、ディオクレティアヌスには初めからこの構想があったのではないかと思う。

1近衛長官がどうしてこのようなことを思いついたのかはローマ史の研究家でも解き明かせた者はいない。

合理的に考えれば、先帝の時代から考えていたということだろう。そして自分は皇帝になるのだと知っていたのだろう。

皇帝2人と言ってもただし、立場は対等ではもちろんない。ディオクレティアヌスは「ヨヴィス・アウグストゥス」であり、マクシミアヌスは「ヘラクレス・アウグストゥス」となっている。ヨヴィスというのは神君を表す言葉で、最高神ユピテルと同意と言ってもよいであろう。

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ヘラクレスはユピテルの息子であるので自分の方が上という意味である。

事実マクシミアヌスはヘラクレスの名に恥じない活躍をした。

当時のローマ領内は荒れに荒れており、海には海賊が、山には山賊が、そこかしこに野盗が溢れる始末であったが、皇帝となったマクシミアヌスはこれらを散々にのしてしまう。

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更に帝国の防衛線であるライン川流域に軍を進め、ゲルマン民族の中でも精強で知られるフランク族を散々に打ち破る。

 一方のディオクレティアヌス帝の方もドナウ川付近のゲルマン民族を追い払い、東方問題においては歴代ローマ皇帝に倣ってアルメニアに親ローマ派の王ティリダテス3世を据えることに成功、これによってササン朝に対する防衛線も確立した。

この結果に満足したローマの元老院は、ディオクレティアヌスに対して「ペルシウスマキシムス(ペルシャを制しし者)」の称号を与えている。

その後は再びドナウ川に向かいサラセン族を撃破し、エジプトにて反対勢力を鎮圧、再びドナウ河に移動しサルマティア族を打ち破っている。

四頭政治(テトラルキア)

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流石に皇帝2人ではローマは広すぎると考えたのか、今度は皇帝4人によるテトラルキアを始めた。

これは正帝アウグストゥスの他に副帝カエサルを新たに2人据えるという政策で、この頃よりカエサル=副帝という図式が出来上がった。

今迄は後継者に対しカエサルという名を与えていたので次期皇帝という意味合いが強かったが、この頃に正式に副帝という呼び名にした。

帝国東方の副帝にはまだ若いガレリウスを、西方には同年代のコンスタンティウスを配置し、帝国を4分割にして統治を始めた。歴史的に有名なテトラルキアである。

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ドミナートゥス(専制君主制)

ディオクレティアヌスの一連の改革およびその政体は元来の帝政であるプリンキパトゥスと区別してドミナートゥスと言われる。

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ドミナートゥス下では軍人と文民は完全に切り離された。

かつてローマは文人の最高峰であるコンスル(執政官)が軍を率いる最高司令官でもあり、文武兼任しており、それが多様な人材を生み出していたともいえる。

実際ユリウス・カエサルは政治家として元老院に籍を置きながら軍人としてもガリア遠征を成功させるなど卓越した才能を見せた。

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それを完全に分離させ、元老院の人間は兵役に就くことはできなくなった。

そればかりではなく、あらゆる職業は世襲制になり、兵士の子は兵士に、職人の子は職人になることになる。

これを以て中世の封建制が始まるとする者もいる。

今の日本国憲法風に言えば職業選択の自由を廃止したといったところだろうか。

その他にも大ナタと言っても良い改革を断行していくわけだが、詳しくは以下の記事をご覧いただけるとありがたい。

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ある意味、「古き良きローマ」はこの時に終わったと言っても良いだろう。

形だけでも存在した共和政は影も形もなくなり、専制君主による支配する政体が人間世界を覆い、再び民主制が顔を出すには17世紀のイギリスを待たねばならない。

皇帝崇拝とキリスト教の弾圧

ディオクレティアヌスが行った数々の改革よりも、後世に名を遺したのはキリスト教の大弾圧であった。

ディオクレティアヌスは先述した通り神君(リヴィス)を名乗っており、 自らを主神ユピテルと同一視させ皇帝崇拝を徹底した。その上で皇帝の命令に従わないキリスト教とマニ教を弾圧することにする。

ディオクレティアヌスはやるとなったら断固たる意思で徹底的にやる男である。

彼が断行したキリスト教の弾圧とは以下のようなものであった。

・教会を破壊しつくす
・信徒の集まりを禁止
・バイブルや十字架などの祭具は全て燃やす
・ローマ法による保護を適用しない
・公職からは追放
・財産は没収される

現代の方から照らし合わせるとかなり違憲性の高い弾圧である。結社の自由、信仰の自由、私有財産制の保護など本来はローマ法由来の諸権利が悉く否定されている。

キリスト教史観によらなくても、ローマ法を順守しなかったという点でディオクレティアヌス帝は批判されることが多いが、キリスト教徒であるという理由だけで虐殺までは行わなかったようだ。

処刑したキリスト教徒は数あれど、内実は放火であったり兵役拒否であったり、ネロが行ったような虐殺などは見られない。

ディオクレティアヌス自体も当初は信教の自由を認める方針であったようだが、キリスト教徒の勢力があまりにも大きくなり、弾圧の必要が出てきたというだけで個人的な恨みなどで行った訳でもない。

むしろキリスト教徒たちは結託し皇帝の住まいに放火を試みる始末であり、先述したように処刑はこのような放火犯などにおいてのみ行われている。

それでも後のキリスト教史観においてはこれらが誇張して伝わり、ディオクレティアヌス帝=暴君のイメージがついてしまったようである。

引退

ディオクレティアヌス帝は史上初、自ら引退した皇帝である。

歴代皇帝は誰も自らの意思で引退はしなかった。その発想すらなかったであろう。これは日本において天皇陛下の引退が難しかったのと似ているかも知れない。

ディオクレティアヌス自体、60歳になっており、体力的な問題もあったのだろう。

アドリア海のほとりに宮殿を作り、余生はそこで過ごしたようである。

皇帝位を引退してからどのようにディオクレティアヌスが余生を過ごしていたのかを伝える資料はない。

紀元311年12月3日、ローマの大改革を行った皇帝は静かに息を引き取った。67歳というのは、歴代ローマ皇帝では長生きした方である。

個人的なディオクレティアヌスの評価

世界の歴史上、これほど評価のしにくい人物も少ない。

まずもって彼は暴君でも無能でもない。

キリスト教の弾圧はさておいても、確かにディオクレティアヌスの改革は失敗に終わった部分が多い

貨幣改革は失敗し、統制経済もうまく行かず、テトラルキアはディオクレティアヌス帝が引退した直後に破綻している。

だが、もはや滅亡するしかなかったローマを、わずか50年の間で25人も皇帝が変わっていた軍人皇帝時代を終わらせ、20年もの歳月を皇帝として過ごし、治安を回復させ、外敵からローマを守ったという功績や、断固とした意志で改革を断行した行動力は称賛に値するだろう。

仮にディオクレティアヌスがいなければ、4世紀の時点でローマ帝国は滅びていた可能性は高かったし、その後1453年まで続く東ローマ帝国も誕生さえしていなかったことだろう。

そのようなことを総合的に評価すれば、ローマ帝国中興の祖と言え、ローマを復活させた皇帝との評価が相応しいのではないだろうか?