センター試験やセンター模試なんかでは「ミラノ勅令によってキリスト教が国教化された」〇か×かみたいな問題が良く出る。
答えは×で、よく誤解されるのだけれど、ミラノ勅令自体はキリスト教を公認しただけで国教化された訳ではない。
そもそも公認化されたのはキリスト教を含む全ての宗教で、ミラノ勅令においてはローマ帝国内の信教の自由が確認されたというのが正しい。
さらにコンスタンティヌス帝が出したというのももちろん正しいのだけれど、正確にはコンスタンティヌス帝とリキニウス帝がミラノで会談した際に出した共同声明なので、コンスタンティヌス帝の単独の功績にするのはどうなんだろう?
という訳で今回は「ミラノ勅令」についてくわしく解説させていただければと思う。
そもそもなぜ歴代のローマ皇帝はキリスト教に弾圧を加えたのか?
ミラノ勅令を出した当時、ローマ領内におけるキリスト教徒はどれだけ多く見積もっても5%ほどであったと言われている。
山川の世界史用語集にはミラノ勅令を出した理由について「増大した信徒を懐柔するための政治的措置だと考えられる」と記載されているがどうだろう?
なぜミラノ勅令が出されたかは古来様々なローマ史家が研究の対象としてきたが未だに定説をみない。
だが、歴代ローマ皇帝がなぜキリスト教に弾圧を加えたのかは大体において一致している。
それは、キリスト教徒がローマの神々に対し祈りを捧げないからである。
ローマ皇帝とは、インペラトル(ローマ帝国最高軍事司令官)とポンテフェクス・マクシムス(最高神祇官)を兼任する存在である。
これはユリウス・カエサルが最高神祇官に就任し、養子となりその立場を継承したオクタヴィアヌスが初代ローマ皇帝となったことに端を発する。
カエサル自体は宗教的には融和政策をとっており、例えばユダヤ教徒の信教の自由を認めた。その後のローマ皇帝もこの路線で進んでいたのだが、キリスト教徒に関してはキリスト教徒であるという理由ではなく、ローマ法によって定められた祭儀に参加しなかったという理由で罰せられることが多かった。
キリスト教徒を虐殺したネロですらその理由はローマ大火を引き起こしたという理由の処刑であったし、キリスト教徒であるという理由で弾圧を加えた皇帝は割と少ない。
キリスト教徒への迫害はそれこそ五賢帝と言われるアウレリウス帝の時代からあり、それは国家が行ったのではなく民間のレベルで問題になっていることが多かった。
軍人皇帝時代になると皇帝が主導したキリスト教徒への弾圧も増えてくる。
ササン朝との闘いに敗れ捕囚されたヴァレリアヌス帝などはキリスト教徒への本格的な弾圧を加えたことで知られている。
国家として本格的に大弾圧を加えたのがドミナートゥス(専制君主政治)を始めたディオクレティアヌス帝と副帝であったガレリアヌスで、後にキリスト教が支配的になるにつれこの2人は最悪の暴君であるような扱われ方をする。
ディオクレティアヌスがキリスト教徒を弾圧した目的は明白で、彼は今までの帝政プリンキパトゥスから専制君主的なドミナートゥスに移行する際に自らをユピテルと同一視した。所謂皇帝崇拝の始まりである。
だが、唯一神YHVHを信奉するキリスト教徒たちはそれを拒否、ディオクレティアヌス自体は大分譲渡したのだが、全く聞き入れられる様子もなかったため弾圧を敢行した。
弾圧と言っても処刑するなどはしておらず、教会の破壊、祭具の破壊、結社の自由の否定などを行った訳だが、それでもキリスト教徒は信仰を捨てなかった。
305年にディオクレティアヌス帝は退位し、そこからミラノ勅令までは10年も経っていない。
なぜ「ミラノ勅令」は出されたのか?
この点については古来より様々な説があり、以下のようになっている。
コンスタンティヌス帝の母(父も?)がキリスト教徒であった
帝国支配にとって都合がよかった
個人的にはコンスタンティヌス帝もクリスチャンだったと思っている。実際に死の直前に洗礼を受け、その遺体はキリスト教の施設に安置された訳だが、彼は新都コンスタンティノープルを建設した時にローマの神々を祀る神殿は作らずキリスト教の教会などの建設をしている。
そもそもコンスタンティノープルに都を定めたのさえキリスト教を保護するためだったのではないかと思われる節さえある。
コンスタンティヌス帝はキリスト教を国教化した訳ではないが、キリスト教の司祭などになれば非課税にするなど明かな保護政策を行っている。
また、コンスタンティヌス帝の母はどうやら隠れキリシタンであったようだ。現代では父であるコンスタンティウスも実はクリスチャンだったのではないかとい説さえある。
クリスチャンへの大迫害を行った人物の副帝がクリスチャンだったとしたら皮肉だが、東と違い西の皇帝達はほとんど弾圧を行っていない。これは、キリスト教徒のほとんどが帝国の東方に集中していたからだろう。
のちにイスラム教が支配する地域の方が後にキリスト教が支配する地域よりも熱心なクリスチャンが多かったという点には何か不思議な感じもする。
コンスタンティヌス帝自体がクリスチャンであったかどうかは結局わからないが、帝国支配にとって都合が良いと考えたのは確かであろう。
コンスタンティヌス帝の後継者たちもその路線に乗り、キリスト教徒への保護を与えた。所謂聖職者階級は非課税となったし、392年にはついにキリスト教が国教となるまでになる。
初代イスラム帝国の結束が固かったように、唯一神でまとまる民族は強い。
それを知っていたコンスタンティヌス帝が「支配の道具」としてキリスト教を利用したとしても何も不思議ではないだろう。
ローマ帝国内にはラテン人もいればヌミディア人、ムーア人、ガリア人、ゲルマン人、アラブ人と実に多種多様な民族が共存していた。それらの民族をまとめ上げるためには宗教しかない。そう思うのはある意味合理的なことなのかも知れない。
「本日以降、己が信じる宗教がキリスト教であろうと他のどの宗教であろうと変わりなく、各人が己の信じた宗教を信じ、それに伴う祭儀に参加する完全な自由を認める。それが度の神であろうとその至高の存在が、帝国に住む人の全てを恩恵と慈愛によって若いと融和に導いてくれることを願いつつ」
本来、ローマとは寛容性(クレメンティア)の国家なのだ。
財産は保証され、職業も表現もそして信仰も束縛されない国家こそがローマだった。
ミラノ勅令は何かを強制した詔ではない。
ローマのクレメンティアの精神を表したに過ぎないのだ。