「名誉革命」「アメリカ独立戦争」「フランス革命」の3つを、世界史では3大市民革命と呼ぶ。
これらが世界史に与えた影響は大きく、世界は専制的な絶対君主政治から近代的民主政治に移行していくことになる。
オスマントルコもその例外ではなく、1703年にエディルネ事件が起こる。
エディルネ事件
エディルネ。オスマン帝国最初期の都であり、その建設は古代ローマ時代、五賢帝の一人であるハドリアヌス帝の時代までさかのぼる。
エディルネの元々の名はハドリアノポリスで、西ローマ帝国が滅ぶとビザンツ帝国(東ローマ帝国)のもとでアドリアノープルになり、14世紀にオスマントルコが征服するとイスラム風にエディルネという呼び名に変わった。
1453年にオスマントルコの首都がコンスタンティノープルになってからも重要都市であり続け、事件が起きた時、オスマン帝国スルタンムスタファ2世もこの地に滞在していた。
1699年、オスマン帝国は敵対する神聖同盟(ローマ教皇、神聖ローマ帝国、ポーランド、リトアニア、ヴェネツィア、ロシア)との間に屈辱的なカルヴィッツ条約を結んだ。
スレイマン大帝の時代より150年以上が経ち、ウィーン包囲に失敗したあげくの条約であり、この条約によってオスマントルコはハンガリーをはじめバルカン半島の領土の多くを失うことになった。
さらに戦争による出費を補うためにムスタファ2世は増税を決意、これが民衆からの不満を爆発させた。
1703年、200名の兵士が給与の未払いを理由に首都イスタンブルよりスルタンの滞在するエディルネに対し進軍を開始した。
ここに不満を持った民衆やオスマン帝国において専横的にふるまっていた長老フェイズッラーに不満を持ったウラマー(イスラム法学者)、イエニチェリ軍団などが加わり総勢6万人の軍団となってエディルネに迫った。
両軍はにらみ合いとなったが、エディルネを防備する軍団もこれらの勢力に賛同、長老フェイズッラーは逃亡し(後に捕縛され怒れる民衆によって死亡)、ムスタファ2世が退位をすることで事件は収束した。
ムスタファ2世の退位後は弟のアフメトがアフメト3世として即位をし、当時オスマン帝国ないで支配的であったカドゥザーデ派の指導者たちも処刑、絶対的専制君主の交代が民衆の蜂起を契機として行われた稀有な事件として現在、世界史的な重要度が高いのではないかと言われ注目が集まっている。
エディルネ事件の意義
現在の日本のどの教科書を見てもエディルネ事件については掲載されていない。
事件は1703年と、イギリスの名誉革命から15年後に起こっており、アメリカの独立戦争よりも70年ほど前に起こっている。
3大市民革命に比べて意義が薄いのは、権利章典や独立宣言、人権宣言などを伴わず、近代的な憲法の制定などもなかった点であろう。
それでも民衆によって君主の交代および宗教的指導者が交代したことは世界史的に見ても特筆すべき事柄であると言えるだろう。
流血の度合いで言えば、指導者階層に数人流れただけであり、アメリカ独立戦争やフランス革命のそれよりも遥かに少ない。
オスマン帝国は最初期には各部族の集合的、地方分権的な政治であった。やがてスルタンの力が増し、スレイマンに代表されるような絶対的専制君主による中央集権的な国家となったが、エディルネ事件を契機に柔軟な君主政治制度になったというべきであり、比較的民主政治に近い政治体制となっていた。
欧米諸国よりも先に、オスマン帝国がこのような政治体制になっていたことは、世界史的に見ても意義が大きいとみるべきに思う。