デーン朝の創始者カヌートが亡くなると、後継者問題が発生した。
カヌートの息子であるハロルドが一旦はイングランド王になるものの5年死んでしまい、その跡を継いだカヌートとノルマンディ公の娘エマとの間のこと度ハーデクヌーズも即位2年で死んでしまうと子もなくデーン朝は三代で断絶となってしまう。
跡を継いだのはのちに「コンセッサー」と呼ばれることになるエドワードであった。
エドワードは無思慮王と呼ばれたエゼルレッドの息子で、もう一人兄がいたのであるが、この兄アルフレッドはイングランド最有力貴族であるウェセックス伯ゴドウィンによって暗殺されたと言われており、エドワード自体の即位もゴドウィンの思惑が働いていた。
ゴドウィンは娘イーディスをエドワードに嫁がせ、東洋的に言えば外戚としてイングランドの政治を陰から操ろうと目論んでいたのである。
英語が話せないイングランド王
歴代イギリス王において、英語が話せない王は珍しくない。
「君臨すれども統治はせず」
これはのちのヴィクトリア女王の時代の言葉であるが、イギリスの王は元々貴族にとって都合の良い人物が選ばれる傾向に昔からあったのである。下手に革新的な政治をされるより、既得権益を守る方向に進むのがイギリスの政治である。
日本では既得権益者は世襲議員や世襲の大企業経営者、官僚や医師などであるが、英国では明白に貴族である。
とはいえ王の権力は絶大で、イングランド王になったエドワードは近臣をノルマンディ公時代の臣下、すなわちフランス語を話す人々で固めた。
これにはエドワードを傀儡にするつもりであったゴドウィンはじめイングランド諸侯は反発を強めた。
しかし、敵の敵は味方というように、エドワードは七王国由来の伯(アール)であるマーシア伯とノーサンブリア伯と組んでゴドウィンを追放してしまう。
憎まれっ子世にはばかるではないが、こういう人物はハイそうですかと引き下がるような人物ではない。
1052年、ゴドウィンは再びイングランドに上陸するとエドワードの近臣たちを廃し、エドワードを文字通り操り人形として傀儡と化した。
しかし翌1053年ゴドウィンは突然死んでしまい、息子のハロルドが実権を握る。この時イングランドの騒乱をチャンスと思ったウェールズ諸侯がイングランドに侵攻するもハロルドによってあえなく鎮圧、ハロルドを中心とした諸侯は「強すぎる家臣たち(オーヴァー・マイティ・サブジェクツ」としてイングランドの政治を思いのままにすることに成功した。
三つ巴の争いの始まり
エドワード証聖王も50になったが、跡継ぎがいなかった。そこで彼は後継者に母国ノルマンディ公国の当主ギョームを指名、1066年にはエドワードは亡くなってしまう。
世界史に詳しい人はこの1066年という年号でピンと来るかも知れない。
このエドワード証聖王の死に端を発して起ったのが後の歴史に「ノルマンコンクエスト」と呼ばれるようになる事件である。
ギョームという名に聞き覚えのない人が多数だと思うが、ギョームはやがてウィリアム一世と名を変え、イングランドの王となる人物である。
1066年、ノルマン朝の開始である。
個人的なエドワード証聖王の評価
「エドワード・ザ・コンフェッサー」と呼ばれ、エドワード証聖王と訳される一方で、エドワード懺悔王の名で呼ばれることもあるのがこの人物で、残念ながらイギリスに来て以降の彼はずっとウェセックス伯の傀儡であった。
そういった背景があるためか、非常にキリスト教の信仰に熱心で、かの有名なウエストミンスター寺院を建設したのはこのエドワードで、歴代のイギリス王はこのウエストミンスター寺院の「ルーム・オブ・エドワード・ザ・コンフェサー」で戴冠をするのが伝統となっており、キリスト教の聖人に列挙されている。
ノルマン・コンクエストや貴族の台頭も含め、あらゆる意味でイギリスという国の基礎を作った人物であったかも知れない。