アメリカを世界最強国家にのし上げた大統領!第32代フランクリン・ルーズベルト

アメリカ史上3回の大統領期間を満期したのは後にも先にもフランクリン・ルーズベルト1人であった。世界恐慌、第二次世界大戦と世界史上でも最も困難な時代のアメリカの指導者として、フランクリン・ルーズベルト大統領こそが歴代最高の大統領であるという声も大きい。

 大統領になるまでのフランクリン・デラノ・ルーズベルト

フランクリン・ルーズベルトの家は遥か昔、17世紀の中頃にユダヤ系オランダ人がアメリカのニューヨークに移住した際姓をルーズベルトとしたことに由来するという。その開祖クラース・ヴァン・ルーズベルトの死後は大きな二つの家に分離し、片方はセオドア・ルーズベルトを生み出し、もう片方はフランクリン・ルーズベルトを生み出すことになる。

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フランクリンの母はフランスから弾圧を逃れてやってきたプロテスタント(ユグノー)で、大変な資産家であったという。それゆえにルーズベルトの教育は学校ではなく家庭教師によってなされ、14歳で寄宿制の学校に行くまでは学校に通ったことはなかったという。その後はハーバード大学からコロンビアロースクールとすすみ、その後は弁護士として活躍する。

この間にセオドア・ルーズベルトの弟の子であるエレノア・ルーズベルトと結婚し、セオドアの義理の甥となる。

ここまでセオドアと関係の深いフランクリンだったが、セオドアと違い支持政党は民主党となっており、1910年にフランクリンは1884年以来の民主党の州議会議員となる。

その後は同じ民主党のウッドロー・ウィルソンに海軍次官に任命され、この頃にイギリスのウィンストン・チャーチルなどと親交を深めることになる。

大戦後は副大統領選に出馬するものの大敗をし弁護士に戻り、1928年にはニューヨークの州知事選に出馬し見事当選している。

その後1932年の大統領に出馬し、現職のハーヴァート・フーバーを破って当選、第32代アメリカ大統領となる。

第32代アメリカ大統領(1期目1933年~1937年)

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フランクリンが大統領になった際、世界は大きな混乱の渦の中にあった。1929年に起きた世界恐慌はまるで好転の兆しを見せず、街には失業者があふれていた。

これに対しルーズベルトは公共事業を起こして意図的に失業者を減らす政策を採用、テネシー川開発機構を設立し景気の巻き返し政策である「ニューディール政策」に取り組む。

これらの政策の中には農業調整法(AAA)、全国産業復興会(NIRA)、ワグナー法、社会保障法など多岐にわたるが、その内容には現在でも賛否両論ありその評価は難しい。

ニューディール政策により景気が回復したと考える者もいれば実際の失業者の数は変わらず景気の回復はなかったとするものもいる。それ以上にニューディール政策は国家による過度の経済への加入であり自由主義経済の原則に反するものであり、ルーズベルトは社会主義者であるという声さえ当時から現在に至るまで存在しているほどである。

さらにニューディールには金本位制の停止も含まれており、これがフランスをはじめ多くのヨーロッパ諸国の反発も招いていた。アメリカ発の世界恐慌によってドイツの賠償金支払いは不可能となっており、それによって欧州諸国はアメリカへの債務返還が困難な状況になっていた。フランスなどはそれが故にアメリカに対し債務返還義務の解決を求めたがルーズベルトはそれを一蹴、世界経済の回復よりもアメリカ本国の経済復興を優先させることを明言した。

これによってロンドン世界通過経済会議は決裂し、世界は二度目の対戦に向かって突き進んで行くことになる。

さらにこの時期スターリン率いるソヴィエト連邦を承認し、ドイツおよびイタリアでファシズムが猛威を振るう中アメリカはモンロー以来の孤立主義を貫くという旨の中立法を決議、事実上ファシズムの増大を容認した。

さらにキューバに対しては帝国主義的な対応を改めプラット条項を廃止し、フィリピンの独立も認める政策を取り、カリブ海に対しては「善隣外交」と呼ばれる融和的な政策を採用する。

大統領二期目・三期目(1937年~1945年)

1939年、ついにナチスドイツが隣国ポーランドへの侵攻を開始していた。今迄ドイツに対し融和政策を行っていたイギリスとフランスもこれを見てドイツとの戦争を決意、ついに人類史上最悪の戦争である第二次世界大戦が始まったのであった。

アメリカは当初モンロー主義の原則に従って不参加であった。

その流れが変わったのが大日本帝国軍によるハワイ真珠湾攻撃である。

日本がなぜこのような無理な作戦をしたかは現在でもあるゆる場面で議論があるところで、メイン号事件やルシタニア号事件、後のトンキン湾事件のようにアメリカは相手国に攻撃させるのが得意であり、アメリカ側の策略に大日本帝国軍がマンマとはめられてしまったとするのが妥当なところと思う。

フランクリン・ルーズベルトは第二次世界大戦に参加したくてしかたがなかった。理由は失業者問題をはじめとした経済的な問題であった。

以下はアメリカの失業率であるが、二次大戦を契機に一気に下がっているのがわかる。

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しかしアメリカがドイツに対して宣戦布告をする名分がまるでなかった。ドイツはアメリカに敵対していないし、今回は一次大戦のような無制限爆撃を行ってはいない。そこでルーズベルトは日独伊三国同盟に目を付けた。日本とアメリカは義理の伯父のセオドア・ルーズベルト以来ずっと中国問題で対立を続けており、そこを激しく刺激すれば攻撃してくるであろうという目論見である。

ルーズベルトの目論見は見事にあたった。日本という国家は過去から現在にいたるまでに世界レベルで物事をみて戦略を建てるのが巧くない。

結果はやる前から明らかなとおり日本軍は敗北した。大日本帝国がアメリカを敵に回したのも愚かだったが、ナチスドイツがソヴィエト連邦を攻撃したのも愚かであった。これによりバトルオブブリテンと言われたヨーロッパでの戦いが全世界に波及することになり、枢軸国側は文字通り世界を相手に戦わねばならなくなったのだ。

アメリカとソヴィエト連邦はチャーチル率いるイギリスと同盟を結び連合国を形成、ヨーロッパにおいてはノルマンディー上陸作戦を敢行しドイツは降伏、その後日本には原子力爆弾を2回も落とし見せしめとしてアメリカの強さを世界に見せつけた。

ルーズベルトはその前に死んでしまっており、原爆を直接落としたのはトルーマンであるが、そのような計画を立てたのはフランクリン・ルーズベルトである。

その結果アメリカの経済は急速に回復し、成長していった。

以下はアメリカのGDPである。

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実際にはニューディール政策はまるで効果がなく、戦争によってアメリカの国力が伸びたことがわかる。

個人的なフランクリン・ルーズベルトへの評価

フランクリン・ルーズベルトは最もアメリカを繁栄させた大統領である。

事実ルーズベルト以前のアメリカは空前絶後の繁栄を享受していたが、同時にその崩壊も始まっていた。ルーズベルトはその崩壊を食い止めただけでなくアメリカを世界第一位の国にし、アメリカによる世界支配の端緒を切り開いた人物であると言えるだろう。

そのために第二次世界大戦を利用した。

二次大戦はアメリカにとって大成功であった。

日本にとっては最悪の戦争であったが、アメリカにとって最悪の戦争は二次大戦ではなく南北戦争であった。

二次大戦におけるアメリカの死者は40万人、南北戦争においては50万人、割合で見れば二次大戦の動員数は1600万人で南北戦争は330万人、アメリカにとって「戦後」とは南北戦争後のことを指す。

アメリカは二次大戦中から既に世界を支配する欲望をむき出しにしていた。そのために必要だったのが圧倒的な武力であった。新型のアトミックボムはその象徴であり、広島と長崎はアメリカ軍にとってはよい見せしめであった。

さらにフランクリン・ルーズベルトは人種差別主義者として有名であった。

ヒトラーが人種隔離収容所を運営したのは世界の誰もが知っていることであるが、ルーズベルトが日系アメリカ人を収容するための強制隔離施設を運営していたことはどこまで知られているのだろう?

アメリカの大統領および支配者層にとって日本人のような黄色人種は絶滅すべき対象であるのである。

なお、ルーズベルトが死んだ時には傍らには妻の姿はなく、愛人であったルージー・ラザフォードがいたという。歴代最高のファーストレディは満場一致でフランクリンの妻エレノア・ルーズベルトであるというが…