ローマの礎を作った天才将軍!グナエス・ポンペイウスの生涯と本当の評価について!

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ウィリアム・シェイクスピアは人類始まって以来の天才作家であるが、それが故にその登場人物の評価まで左右してしまうという傾向がある。

ローマの英雄の1人グナエス・ポンペイウスはシェイクスピアの最大の被害者だと言えるだろう。

ポンペイウスの戦績は世界史レベルにおいてもトップクラスで、実は人生においてたったの1度しか敗北を経験していないほどなのだが、シェイクスピアのジュリアス・シーザーのおかげで情けない負け役としてのイメージがついてしまった。

本当は恐ろしいほど強いグナエス・ポンペイウスの生涯について見て行こう!

 スッラ派の代表

ポンペイウスは名門貴族の生まれという訳ではなく、新興富裕階層であるエクイテス階級の出身で、同名の父親はローマ近郊に大土地所有をしており、プラエトル(法務官)やローマ最高職であるコンスル(執政官)を経験している有力者だったが、閥族派であったために平民派のガイウス・マリウスによって粛正されてしまった。

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マリウスはすぐに亡くなってしまうが、平民派の天下は続き若き日のポンペイウスはその魔の手から逃げるように暮らしていた。

やがて閥族派代表のスッラがローマに向けて進軍するとそれに加わり、平民派の軍団を悉く蹴散らす活躍を見せる。スッラからの覚えも良く、基本的には優遇されていたが、スッラからその時の妻と離縁するように言われ新しくスッラの親戚の娘と結婚した。

敵方の平民派であったユリウス・カエサルが命を助けてやる代わりに離婚しろと言われて断って逃げたのとは対照的であったと言えるだろう。

一事が万事とは言ったものだが、ポンペイウスは軍事的には天才だったが、それ以外のことになるとてんでダメで、彼の生きざまからは主義や主張と言ったものは一切見られない。

能力はあるが信念の一切ない東大生のようなものかも知れない。

スッラは平民派掃討作戦を展開し、ポンペイウスをシチリアや北アフリカに派遣、ポンペイウスはまるでクモの子を散らすような勢いで平民派の残党を蹴散らしていく。

これらの地域はローマの穀倉地帯と言え、ローマ全体の3分の1の小麦の生産量を誇る重要地域であった。

ポンペイウス・マグヌス

ポンペイウスの強さは長いローマの歴史にも例がないほどであった。

そのためポンペイウスは兵士たちからは「インペラトール(最高司令官)」と言われ、スッラからは「マグヌス(大王)」の名で呼ばれることになる。

そのあまりの戦果からローマでは凱旋式が執り行われ、その時まだ25歳。その年での凱旋式は他に例がなく、ローマの史上最年少記録であった。

ローマ市民というのは年齢を尊ぶ傾向にあり、官職に就くための資格は30歳を越えてから得るのが普通で、最高指揮官であるコンスルにいたっては40歳を超えないと立候補すらできない。

にも拘わらずポンペイウスはわずか25歳、まだ官職も得ていない状態で凱旋式を行ってしまったのである。

ローマ建国から700年、髄一の軍事的才能、随一の軍事的成果だと言えるだろう。

その勢いはスッラが亡くなっても衰えることは知らず、むしろそれによってタガが外れたように加速し始める。

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ポンペイウスはスペインに残る平民派を掃討するとギリシャを荒らしまわっていた海賊たちの征伐に向かう。

この途中でスパルタカスの乱を平定したという話もあるが、この辺りはクラッススが平定したのかポンペイウスが平定したのかわからない部分があるのでこのブログでは一応クラッススの手柄ということにしておく。そうでないとクラッススの手柄ってなにも亡くなってしまうからな・・・

ギリシャの海賊に関しては凶暴化、組織化していて、若き日のユリウス・カエサルも囚われて身代金を取られている(カエサルはその後自費で兵団を組織して海賊たちを自力で撃破しているが)。

海賊がポンペイウスの相手になる訳もなく、これもあっと言う間に平定。これ以降ギリシャはポンイウスの勢力範囲となる。

続いて小アジアにあったポントスの王ミトリダテスも疾風の如く制圧し、ミトリダテス戦争を終結に導くとそのままシリアに行きアンティゴノス朝シリアを支配下とし、ローマの属州としてしまう。

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ポンペイウスはわずか10年程度でシチリア、北アフリカ、スペイン、ギリシャ、小アジア、シリアという広大な地域の覇権を握ったことになる。

その勢いはアレキサンダー大王に匹敵すると言っても過言ではないだろう。

ポンペイウス・マグヌスの名も伊達じゃない訳である。

ローマで開催された凱旋式はかつてない規模と派手さになり、ローマは名実ともに世界国家となった訳である。

元老院はポンペイウスの独裁を警戒したが、軍団はローマに入る前に解散し、独裁官になるつもりはないことを示した。

結果を言えばポンペイウスは国の覇権は握らず、生涯を一軍人として通したことになる。

三頭政治

カエサルとポンペイウスが手を組むことはないと誰もが思っていた。なにせカエサルはポンペイウスの妻と公然と不倫をしていたし、そのことが原因で妻と離婚しているのだ。

そしてポンペイウスとクラッススが手を組むこともないと誰もが思っていた。クラッススはポンペイウスの軍事的才能をねたんでいたし、ポンペイウスはクラッススのことを心の底から軽蔑していたからだ。

しかし3人は手を組んだ。

世界史の教科書になら必ず載っている紀元前60年の第一回三頭政治である。

カエサルの1人娘であるユリアとポンペイウスは結婚した。

三頭政治は激しく元老院と対立したが、ポンペイウスはやることをやりつくしたためかそれとも愛に生きることにしたのか完全にやる気を失ったようになる。

この頃は軍事的行動は一切行っておらず、ポンペイウス劇場の着工などを行ったぐらいだ。

やがてカエサルはガリア(現在のフランス)に遠征し、クラッススはパルティアに遠征に出かけた。

この頃のポンペイウスはヒスパニア総督となり、自分の派閥の人間をエジプトに派遣しプトレマイオス12世の即位に協力している。

やがてクラッススが戦死し、カエサルの娘のユリアも病死してしまう。

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妻が死んでからのポンペイウスは腑抜けのようになってしまい、カエサルがガリアから離れられないのもあって元老院派に抱き込まれてしまう。

三頭政治は完全に崩壊してしまったのである。

ポンペイウスを抱き込んだ元老院は勢いづき、カエサルに対し「元老院最終勧告」を叩きつける。もし軍団を解散しなければ「国家の敵」というレッテルを貼られることになるが、カエサルはそのままルビコン川を軍勢と共に渡り、一路ローマに向かって進軍し始めた。

まさに、賽は投げられたのである。

カエサルを大いに破る

元老院議員はカエサルがやってくると知るや一目散に逃げ出した。ポンペイウスは、カエサルとの決戦に備え、地盤のあるギリシャに向かう。もしこの時ポンペイウスが単独で向かったのであれば、歴史は大きく変わっていたであろう。

フランスの英雄ナポレオンは「本当に怖いのは有能な敵ではなく無能な味方だ」という言葉を残しているが、それが最もあてはまったのがこのローマ内戦だと言えるだろう。

数の上ではポンペイウスが圧倒的に有利だった。数以外でもポンペイウスが圧倒的に有利だった。

カエサルはポンペイウスに講和を求めたが、ポンペイウスはこれを拒否している。

2人の英雄はギリシャのデュラッキウムで戦い、そしてポンペイウスが圧勝した。そのまま追撃していればポンペイウスの勝ちであったが、撤退先に伏兵がいると読んだポンペイウスは追撃をしなかった。

理由はそれだけではない。

カエサルの軍勢は精強だが補給線が確立されていない。ギリシャという土地はポンペイウスの勢力圏で、カエサルが軍団を維持できないことを知っていたのだ。だから放っておけばカエサルはドンドン不利になる。

逆にポンペイウスの兵は新兵が多く、訓練も実践も十分ではない上にカエサルの兵ほど式は高くなかった。よって持久戦を採用するのが勝利への道である。

ただしそう見抜いていたのはポンペイウスだけだった。

デュラッキウムでの勝利で調子に乗った元老院の面々はそうではなかった。カエサルをこの機に叩くことで勝利することができる、元老院の人間はそう確信していた。

ポンペイウスという人物は能力はあるが信念や信条といったものを持ち合わせていない。人が言ったことに従うのはうまいが自ら判断を下すことはできない。現代のエリート階級に似ていると言える。

ポンペイウスは他の元老院議員たちのいうことに従った。そしてそれが命取りになった。

天下分け目の合戦!ファルサロスの戦いと英雄の死

ポンペイウス側(元老院側):約6万、うち騎兵7000騎

カエサル側:約2万3,000、うち騎兵2000弱騎

 元老院議員でなくても、これでカエサルが勝つとは誰も思わないだろう。歴史上にはしばしば数の不利を覆す戦いがあるが、基本的に指揮官の能力に大きな差があるか、技術レベルに差があるか、でなければ第二次ポエニ戦争のように騎兵力に差があるというような特殊事情がある場合である。

ファルサロスにおいて、ポンペイウス側は全てにおいて勝っていた。

なのに負けた。

敗因は誰も考え付かないような、だがとてもシンプルなものだった。

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ポンペイウスは負けた。人生でただ一度の敗北であった。

だが、そのたった一度の敗北が彼の人生の全て、彼の後世の評価の全てを決めてしまった。

ローマ史上最高の英雄は、嘲笑とともにこの先何世紀も笑われ続けるのだった。

勝てば官軍負ければ賊軍。

エジプトで再起を試みたポンペイウスは、カエサルとの反目を恐れたエジプトの人間達によって殺された。

彼の首はカエサルの許へ届けられた。カエサルはそれを見て静かに涙を流したという。

クレメンティア・カエサルと呼ばれた彼のことだ、何度自分に敵対したとしてもポンペイウスのことを許したであろう。

ポンペイウスはカエサルにとって、娘の愛した夫であり、義理の息子でありもちろん最大のライヴァルでもあったが、なにより代えがたい友であったのだ。

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