プレヴェザの海戦を勝利に導いた大海賊!オスマン帝国海軍提督バルバロス・ハイレッディン

海賊というのは不思議な存在だ。

「賊」なのだから悪なのだけれど、必ずしもそうとは言えないところがあって、大人気漫画ワンピースのモチーフにもなっているのだけれど、海賊について考える時「正義」とは何かという点について深く考えさせられることになる。

世界史において、海賊でありながら国家の命運をかけた提督にまでなった人物が何人かいる。

その端緒となったのが16世紀に活躍した大海賊バルバロス・ハイレッディンという海賊だ。

彼は海賊でありながらイスラム世界最盛期の王スレイマン1世のもとでオスマン帝国総司令官にまで昇りつめた男で、歴史を変える一戦に参加し世界史に名を刻んだ人物だと言える。

日本での知名度はまるでないが、世界史の中でも重要な役割を果たした海賊バルバロス・ハイレッディンについてくわしく見て行こう。

 海賊バルバロッサ

ハイレッディンは15世紀の後半、トルコ系ムスリム商人の4男としてこの世に生を受けた。幼い頃から兄たちとともに交易の船に乗り航海術をマスターし、父の死後は次男イシャクとともに父の跡を継いでイスラム商人として地中海交易に携わっていた。

一方の長男と三男は商人にはならず海の無法者海賊に転身し、主にキリスト教徒の船をターゲットにしていたが、ある日聖ヨハネ騎士団との戦闘において長男は死亡、三男のウルージはその身柄を確保されてしまう。

その報を受け取ったハイレッディンは身代金を用意するもウルージはこれを拒否し、嵐の中船から脱出して無事生存。ハイレッディンはこの頃兄ウルージと共に海賊活動を始めたと思われる。

ウルージとハイレッディンの兄弟はその後大いに地中海を荒らしまわり、その髭の色から赤ひげを意味する「バルバロッサ兄弟」として人々から怖れられる存在となった。

二人の存在はもはや海賊と呼ぶには大規模に過ぎ、その船員は1000人を越え、大艦隊を率いてアルジェの支配者となったのだが、スペイン王カルロス1世の派遣した1万人を超す兵士たちとの戦いでウルージは命を落としてしまう。

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アルジェ総督としてセリム一世に仕える

 兄ウルージが死んだ際、ハイレッディンはアルジェにいた。このままではスペインに攻め込まれるのは明白であったため、ハイレッディンは巨大王朝となったオスマントルコのセリム一世に対し、アルジェをオスマン帝国の属州とすることを条件に庇護を求めた。

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 セリム一世からすればこんなにおいしい話はない。労せずして北アフリカの重要拠点アルジェが手に入ったのである。このことでハイレッディンはオスマン帝国から正式にアルジェ総督に任じられ、今まで対立していたアラブ人たちとの関係も修復し、さらに街を海賊に開放。地中海海賊の首領としての地位も同時に確保した。

神聖ローマ帝国皇帝カール5世

ヨーロッパ最強貴族であるハプスブルク家出身のスペイン王カルロス一世は、神聖ローマ皇帝をも兼ねることになり、その名をカール5世と改めた。

カール五世は地中海の覇権を狙うべくドン・ウーゴを帝国とする総勢5000名にも及ぶ大艦隊をハイレッディンの本拠地アルジェに派遣するのだが、運悪く嵐に巻き込まれてしまい船の大半を失い、その隙をついたハイレッディンに散々に敗北してしまうのであった。

それ以来スペインの圧迫は鳴りを潜め、逆にハイレッディンの側はスペインの地中海拠点を次々に攻略していくことになる。

現在でもチュニジアの首都として残るチュニスの港は、この頃ハサン朝の支配下にあり、そのハサン朝は後継者争いで分裂していた。

後継者争いに関与していた人物は40人にも及んでいたと言われ、そのうちハイレッディンに協力を要請する勢力がいたのは自然な流れと言えるだろう。

しかしこの頃ハイレッディンには重要な仕事があった。

頼りにしていたセリム一世が亡くなり、その息子スレイマン一世がオスマン帝国スルタンに就任したのである。

ハイレッディンは急ぎイスタンブールに赴きスレイマン大帝と謁見、スレイマンはハイレッディンにオスマン帝国艦隊の整備を命じ、アルジェ総督から北アフリカ総督に昇格させた。元海賊とは思えないほどの大出世である。

さらにスレイマンはハイレッディンにガレー船40隻を与え、その帰路にハイレッディンはチュニスを襲撃した。

その数は8000人を越えていたと言われ、ハフス朝の人々は艦隊を見た途端に戦意を喪失し逃亡。チュニスの住民はこれを大歓迎したと言われている。

一方逃げ出したハフス朝の面々はスペインに救援を要請、カール五世は再び艦隊を差し向け、提督には海洋国家ジェノヴァ出身のアンドレア・ドーリアが任命された。

余談だが、ジェノバとスペインの関係は割と深く、1492年にスペイン女王イザベラに派遣されて新大陸に到着したクリストファー・コロンブスもジェノヴァ出身であり、さらにドーリアとコロンブスはほぼ同じ時代を生きた人物でもある(二人の年齢差は15歳。コロンブスの方が15歳年上)。

コロンブスが新大陸に到着してから40年以上が経った1535年、ドーリアの率いる艦隊は神聖ローマ皇帝カルロス5世を載せ、ガレー船90隻、帆船400隻、総兵力は25000とかつてない規模になっており、さらにこれにサルデーニャ島のマルタ騎士団も合流、対するハイレッディンはチュニスから少し離れたラ・グレット港を増強しこれに対抗。

戦闘は3週間もの間続き、激しい攻防の末砦は陥落、ハイレッディンはチュニスに戻ろうとするが、チュニスに住むキリスト教徒たちが反乱を起こした結果門は固く閉じられ、ハイレッディンは逃亡、チュニスはスペインのものとなる。

この際、ハイレッディンは30隻のガレー船を隠し持っており、逃亡の際にスペインの港であるマオンを襲撃、約6000人の住民を奴隷として連れ帰っている。

一方のカール五世もチュニスで大虐殺を行い、チュニスの街の3人に1人は奴隷にされ、さらに3人に1人は殺されたという。

これではもはやどちらが海賊だかわからないが、その後のチュニスは事前の取り決め通りハサン朝の王族が復位するが、そのような経緯で王になった者を住人が歓迎する訳もなく、反乱が相次ぐことになる。

プレヴェザの海戦

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ハイレッディンが掠奪をしたのは、奴隷をスレイマン大帝に献上するためであった。

当時のオスマン帝国の強さを支えていたのはイェニチェリと呼ばれるキリスト教徒を改宗させた軍団で、当時はその供給地に困っているところでもあったのだ。

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スレイマン大帝にチュニス攻略を嘆願したハイレッディンであったが、スレイマンはチュニスではなく南イタリアへの攻略を命じる。

この際スレイマンはハイレッディンは北アフリカ総督からオスマン帝国海軍提督(カプタン・パシャ)に任命している。

ハイレッディンは海賊から身を起こし、ついに大帝国の海軍トップ、提督にまで昇りつめたのである。

大提督というと格好いいが、やっていたことは海賊の頃となにも変わっていない。ハイレッディンとその艦隊は南イタリアの諸都市を荒らしまわり、次から次へと掠奪を繰り返していった。

1538年、事態を重く見たローマ教皇はヴェネツィア、神聖ローマ帝国などと共に神聖同盟を結成し、ハイレッディンを破った経験のあるジェノヴァ人アンドレア・ドーリアを総督とした連合艦隊を結成した。

再び相まみえる二人の提督、そしてハプスブルク家とオスマン帝国の戦いが今、きって落とされたのであった。

両軍はプレヴェザにて激突し、結果から言えばハイレッディン率いるオスマン帝国艦隊がヨーロッパの連合艦隊を撃退することに成功した。

勝因は連合艦隊の結束の弱さであった。イタリアの諸国家は非常に仲が悪く、特にジェノヴァとヴェネツィアは仇敵と言っても良い間からであったため、連携がとれなかったことがオスマン帝国およびハイレッディンの勝利につながったと言えるだろう。

1540年にはヴェネツィアは単独でオスマン帝国と講和を結び、神聖同盟はあえなく解体してしまうのであった。

カール5世再び

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プレヴェザで負けたカール五世は再びハイレッディン討伐の艦隊を結成した。

提督は再びアンドレア・ドーリア。ガレー船65隻、輸送船400隻、総兵員24000人にも及ぶ大軍勢がハイレッディンの本拠地アルジェに向けて襲い掛かってくる。

「海が船で埋まる光景を初めて見た」

後にそう語られるほどの大軍団であったが、再び地中海の激しい嵐に巻き込まれてしまう。

結果から言えば今回もハイレッディンの圧勝であった。

余談ではあるが、コンキスタドレス(征服者)として南米大陸でインディオを無慈悲に虐殺しまくったエルナン・コルテスもこの遠征に参加しており、この少し前に新大陸での総督の地位をはく奪され、ハイレッディン討伐で功績をあげて前の地位に復職する腹積もりであったらしい。スペイン船が撤退していく中で、最後まで撤退に反対していたのがこのコルテスだったという。

コルテスは結局生涯元の地位に戻ることなく、この6年後にひっそりと世を去っている。

ハイレッディンの最期

オスマン帝国のスレイマン大帝はオーストリア・ドイツ・スペインを支配するハプスブルク家に対抗するためにフランス王フランソワ一世との関係を強化した。

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その一環としてハイレッディンはフランス南部の港町トゥーロンを本拠地として活動し、イタリアの沿岸都市を再び荒らして回った。

ハイレッディンの行動はイタリアの都市を掠奪して住民をさらい奴隷としてアルジェで売りさばくという非道なものであったが、さすがのフランス王がこれを看過する訳にも行かず、ハイレッディンに多額の金銀財宝、さらには食料までも供与してオスマン帝国の首都イスタンブールに帰ってもらうことにしたようだ。

ハイレッディンは相変わらずイタリアの都市で略奪を繰り返した後、1546年イスタンブールの地でひっそりとその生涯を閉じたという。

個人的なハイレッディンの評価

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残虐にして非道な様はまさに海賊である。

世界の歴史においてもフランシス・ドレークと並ぶ大海賊で、海賊でありながら帝国の正規軍のトップに君臨したという点ではこの2人が歴史上最強の海賊であるというべきであろう。

ドレークとハイレッディンの存在は「海賊」という存在の特殊性をよく表していると言え、無法者であるにも関わらず国家によって保護、あるいは利用されており、敵国の勢力を削ったという点において英雄なのである。

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共にスペインが被害に遭っている点も興味深く、コロンブス以来新大陸の権益を独占していたスペインに対しオスマン帝国やイギリスがその権益を海上から奪いに来た構図でもあり、まさに当時の世界史の流れをよく表している。

この後スペインは制海権を失っていくことになり、時代はオランダやイギリスの時代へと移っていくことになる訳だが、その背後には各王朝の庇護を受けた海賊たちの存在があった。

無法者にして英雄。

国家の庇護を受ければ英雄であり、国家が敵とすれば賊となる。

正義とはすなわち大いなる力が与える評価なのだという側面があることを、ハイレッディンは教えてくれるのである。