1066年のノルマンコンクエストから始まるノルマン朝は、ヘンリー2世の即位のよって一区切りされ、新しくプランタジネット朝と呼ばれる王朝が誕生した。
今回はその時代の移り目を創出したヘンリー二世について見て行こう。
アンジュー帝国の誕生
ヘンリー二世が即位する前、ヘンリー一世の娘マチルダ(エンプレスマチルダ)と元ブローニュ伯であるイングランド王スティーブンの間で20年にも渡る争いが続いた。
争いは激化し続けたが、イングランド王にはスティーブンが終生就任するものの、後継者にはエンプレスマチルダとアンジュー伯ジョフロワの息子であるアンリが、ノルマンディ公にはスティーブンの息子ウィリアムが選ばれるという条件で両者の争いは収まった。
かくして1154年、スティーブンスは亡くなり、アンリは新たなイングランド王ヘンリー2世として即位したのであった。
ヘンリー二世は単にイングランド王というだけではなく、フランスにあるアンジュー伯も兼ねており、さらにアリエノールという女性と結婚したことでアキテーヌと呼ばれる大規模な土地の領有権も継ぎ、一気にヨーロッパ最大の土地を所有する王となったのであった。
ヘンリー2世はこの時まだ21歳、彼の始めた王朝は、アンジュー家の家紋である「エニシダ」から名前をとって「プランタ・ジェネスタ」と呼ばれ、後に「プランタジネット朝」と歴史上呼ばれるようになる。
ブリテン島統一
我々が知っているイギリスは、イングランドとスコットランドとウェールズと北アイルランドの4つの地域の連合王国である。
これらの地域のうち、イングランドとスコットランドとウェールズをその勢力下に置いたのはヘンリー2世が初めてである。
元々ヘンリー二世の母マチルダはスコットランド王の娘であったこともあり、幼きスコットランド王マルコム4世を屈服させスコットランドをその勢力下に、8年ほどかかるも西ウェールズをその支配下におくことに成功した。
さらにはアイルランド島にも遠征し、今日のイギリスよりもさらに広大な地域を領有することとなる。海外を植民地化する以前のイギリスにおいて、ヘンリー2世の時代がその最大版図を実現した時期であると言える。
圧倒的な経済力を背景に軍備を拡張し、強大化された王権により各貴族の勢力を削っていく。現代風に言うと行政権も立法権も司法権もその手中に収めた訳だが、どうしても一つだけ思い通りにいかないことがあった。
カンタベリー大司教ベケットとの対立
12世紀当時、ヨーロッパ世界の最大権力者はイングランド王でも神聖ローマ帝国皇帝でもフランス王でもなかった。ローマはバチカンに本部を置くローマ教皇こそが中世ヨーロッパ世界の覇者であった。
このような背景には、ヨーロッパ諸国の公式文書の多くがラテン語で書かれていたことがある。古代ローマの言語であるラテン語を操れるのは司祭階級のみであり、各教会や司祭などを通じてローマ教皇は各国を支配していたと言える。
イギリスにおけるキリスト教勢力の総本山はカンタベリーであり、カンタベリー大司教の権力はある意味イングランド王のそれを越えていたとも言える。
イングランド王とローマ教皇の間には、司祭任命権における主導権争いが常にあった。
この時はヘンリー二世がカンタベリー大司教にベケットを任命し、ローマ教皇アレクサンデル三世も同意した。
しかしベケットとヘンリー二世は司祭クラスに対する裁判権がどちらにあるのかについて意見が割れた。
この問題は結局国王の持つ裁判権が教会の優位に立つということで決着がついたが、ヘンリー二世がウェールズ遠征に際して教会に課税を求めると両者の争いに火が付いた。
国王の権力を恐れたベケットが一時的に教皇庁に亡命するも、再びイングランドに帰国し、ヘンリー二世に協力的な司祭を破門に処す。するとヘンリー二世の側近たちがついにベケットを暗殺する事態にまで発展し、教皇はこれに激怒、ベケットを聖人の序することにし、殉教者ベケットに対する巡礼を世界中のクリスチャンに向けて奨励、ヘンリー二世は結局ローマ教皇に屈することになり、ベケットの墓前で贖罪の儀を執り行うことになる。
これによりローマ教皇の優位が認知され、教皇権力は絶頂を迎えることになった。
結局裁判権においても教会のことは教会が裁くようになり、16世紀まで教皇庁の優位が続くことになる。
息子達との争い
イングランドの歴史においては父子の間でよく戦争が起る。
世界史的にみてもここまで多いのは稀なことで、ヘンリー二世もまた息子達との大規模な戦争を行っている。
ヘンリー二世は妃であるアリエノールとの間に8人の子供を儲けており、日本においてはヘンリー二世よりも息子達の方が有名であろう。
獅子心王(ライオンハート)の名で有名なリチャード一世や欠地王の名で知られ、マグナカルタ(大憲章)を突き付けられたジョンの兄弟はこのヘンリー二世の子供たちである。
娘も三人いて、神聖ローマ皇帝のフリードリヒ一世やシチリア王、ザクセン公などにそれぞれ嫁いでいる。
長男ウィリアムは夭逝しており、家督は次男のヘンリーが継ぐ予定であった。
「あった」というのは問題が起きたのだった。
5人兄弟のうち、5男のジョンには継がせるべき土地がなかった。
「ラックランド」のあだ名は、元々はジョンに次ぐ土地がなかったことからつけられた名だったのだ。それが後年土地をフランスに奪われたのでラックランドは「土地なし⇒失地」という意味になったのだ。
ヘンリー二世はこの末の子のジョンが可愛くて仕方がなかったのだという。後にイギリス史上最低の王と言われるジョンは、親に甘やかされすぎたのかも知れない。
ヘンリー二世は自らの出生地ともいえるアンジュー伯の地位をジョンに継がせると言い始めたのである。
これには次男のヘンリーが激怒した。
ヘンリーの側には妃であるアリエノール、三男のリチャード、四男ジェリフ、スコットランド王にフランス王までが味方するという事態になったが、ヘンリー二世はこれを一蹴。
後にライオンハートと言われるほど軍事的天才とまで言われたリチャードを敵に回しての勝利は怖るべしと言えるだろう。
ヘンリー二世にとって不幸だったのか、次男と四男も次々と自分より先にあの世に旅立ってしまい、リチャードがその後継者となった。ヘンリー二世はどうしてもジョンがかわいいのか、リチャードに土地をジョンにも与えるように言うがリチャードは拒否、それどころか新たにフランス王となったフィリップ2世と組んで父ヘンリー二世に襲い掛かってきた。
悲しいかなこの戦いにはジョンもリチャード側についてしまい、1188年、ヘンリー二世は失意のままこの世を去ることになった。
享年56歳。生まれてから死ぬまでずっと戦いどおしの人生であった。
個人的なヘンリー二世の評価
まるでギリシャ神話のクロノスやウラノスのようである。
広大な土地を持ったヨーロッパ最大の君主であったが、その分敵が多く、その敵を次々と撃破したのに、最後は自分の最も愛していた子供に裏切られて死ぬことになる。
「愛などいらぬ」
ヘンリー二世はあの世でそういっているかも知れない。
冗談はさておきヘンリー二世はかなりの激情家であったらしく、ささいなことですぐに怒り、まるで落ち着きがなく、黙って椅子に座っていられなかったという。
ほぼ休日なしに動き回り、少ない休日でも常に狩りをしていたというが、恐らくは現代風にいうとAD/HDであったのだろう。
広大な土地をもつイングランド王であり、その収入はノルマン朝初代王ウィリアム一世の約1.7倍ほどであったというが、戦争のため国庫は常にからで、たびたび臨時課税を行わなければならないほどであったという。
その激しい気質は息子リチャードにも確実に引き継がれており、彼は獅子心王と呼ばれるほど勇猛であったが、猪突猛進過ぎてすぐに敵の計略にはまり、政治能力は歴代でも最低とさえ言われるほどである。
世界でも最も成功した国家であるイギリスであるが、その歴史を見ると驚くほど名君が少なく、特出した王を生み出していない。
これは議会の力が強いからだと考えられており、卵が先か鶏が先かのような話だが、優秀な国王がいなかったから議会が強くなり、国王の能力に関係なく安定的な政治が行えたということでもあろう。