オスマントルコの歴史を語る上で外せないのが「イェニチェリ」の存在である。
オスマン帝国における常備軍
今でこそ常備軍は珍しくないが、ヨーロッパ諸国などは戦争時においてのみ傭兵を雇うのが基本で、常備軍がある国家は世界的に見ても珍しいと言えた。
さらに言えば近代以降も古代においても、常備軍は自国民で形成するのが常であり、国家のアイデンティティを代表する存在であるとも言えるが、オスマン帝国の常備軍はそうでなかった。
例えば共和政ローマにおいて、軍隊はローマ市民権を持った者たちで形成されており、戦費は自費であったにも関わらず彼らは誇りと自国を守るという意思において戦闘に参加していたし、古代ギリシャにおけるスパルタなども市民が自ら軍隊を形成していた。近代においてもその特徴は見られ、フランスのレジョン(外国人部隊)などを除けば自国民が常備軍を形成するのが一般的である。
オスマン帝国においても、自国民とは言えるのだが、常備軍を形成していたのは奴隷であり、元々はキリスト教徒である。
これはオスマン帝国という国の特殊性が背景にあって、オスマン帝国の君主であるスルタンは代々イスラム教徒であり、帝国内の人口はイスラム教徒であるムスリムが多数派な訳であるが、数々の征服戦争の結果オスマン帝国はバルカン半島やパレスチナなどを領地としており、それらの地域ではキリスト教徒が多数派であった。
オスマン帝国は宗教的には寛容で、人頭税さえ払えば信教の自由があり、何を信仰しても問題なかった。
なので当初のイェイチェリは征服戦争において捕虜となったキリスト教徒をイスラム教の農民などの家にホームステイさせてムリスム化し、奴隷として徴用していたのが始まりであった。
その辺りは↓以下の記事をご参照いただけるとありがたい。
オスマン帝国が600年という長きに渡って政権を維持できたのも、特定の軍閥を形成せずに済んだからという面は大きい。
例えば中国では宦官、官僚、外戚、臣下などが度々派閥化し、皇帝をも上回る力を持ち国家を簒奪するということが両の手ではたりないほど起きており、600年はもちろんその半分の長さでさえ命脈を保てた国はない。
皇帝直属の軍隊にしても、後周や宋の時代の所謂禁軍ぐらいのもので、他は各地の諸侯や軍閥が兵力を保持し、宗主たる皇帝の命令で軍を動かすのが常であった。
オスマン帝国のように官僚や軍隊を世襲化させずに、君主の直属とした国家は他に例がないと言える。
イェニチェリは特に16世紀においては大活躍をし、長篠の戦いよりも60年前の戦いには既に銃火器による武装を施され、ハプスブルク家を始めとしたヨーロッパ諸国が束になっても敵わないような無敵の軍団を形成していった。
それが崩れ始めたのが17世紀の頃だと言える。
変質するイェニチェリ
16世紀において、イェニチェリはエリート集団であった。
この頃には戦争捕虜よりも領地内のキリスト教徒の子供の中から特に優れた者を徴用し、教育し、スルタン直属のエリート部隊としてイェニチェリに編入させるのが常で、スレイマン大帝の時代においても8000人弱、セリム一世の時代においても12000名程度であったと言われていて、それが1609年の時点では40000人にまで膨れ上がっている。
このようにイェニチェリが膨張した原因はその特権化にあると言われている。
イェニチェリは基本的に妻帯は禁止され、その子孫は残せないようになっていたし、身分はあくまで奴隷であった。その代わりに免税特権などがあり、生活の保障もされていて、年金も保証されていた。
現代日本でも税金と年金の問題は大きな問題だが、400年前も同様なのであった。さらにはイェニチェリであれば低金利で融資が受けられたり、民間の商人などに対し何かと有利であった。現代日本で言えば公務員に数々の特権が与えられているのに近い。
そのためデウシルメによらずにコネクションなどを使ってイェニチェリに自ら参入する者が増え、元々のムスリムも増えてきた。
そのため実際には戦闘には参加しないものの籍だけはイェニチェリにあるという事例が増大した。
かつて名門大学のラグビー部には籍だけがある幽霊部員が大量に存在したというが、それに近いかも知れない。日本の企業は体育会出身であるというだけで優遇するためそのようなことが起こった訳であるが、17世紀におけるイェニチェリはそれに非常に近いと言える。
イェニチェリの増大は歳費を増やす結果となるため、歴代スルタンはそこにメスを入れようとしたのだが、そのたびに反発にあい、中には暗殺されるスルタンまで出てきたため、イェニチェリの力は益々増大し、逆にスルタンの力は弱まっていった。
そしてイェニチェリの腐敗が進行するとともにオスマン帝国の軍事力は大きく低下し、かつては一方的に勝利していたはずのヨーロッパ諸国に敗戦を重ねるようになっていく。
元々は世襲や軍閥の形成を避けるための制度であったが、17世紀以降は妻帯者も増え、その地位は世襲化されるようになり、ますます腐敗の度合いを強めて行った。
イェニチェリの衰退とアーヤーンの台頭
イェニチェリの権力はオスマン帝国内部で益々強くなっていったが、まるで内弁慶のように国外の戦いには勝てなくなっていった。特権だけを持ちまるで役に立たないイェニチェリに、国民は反発を強めて行った。
そのことが顕著になったのが1767年に起こった露土戦争である。この戦争においてトルコはロシアに大いに負けた。講和条約であるキュチュク・カイナルジャ条約においてはクリミア・ハン国の独立にアゾフ及び黒海沿岸の一部割譲、バルカン半島におけるロシアの影響力拡大などやられ放題であった。
このような背景にイェニチェリの代わりに台頭したのがアーヤーンと呼ばれる地方の名望家である。
中央政府が弱体化すると地方の有力者が戦闘で活躍するのは唐の時代の節度使と同様で、代表的なアーヤーンが世界史の教科書にも出てくるエジプトのムハンマド・アリーであった。
オスマン帝国の対外戦争は彼らアーヤーンが担当することになり、その力はすでにスルタンよりも強大になっていった。
もはやこの時代になるとイェニチェリは特権を食いつぶすだけの存在になり、国家財政を圧迫するだけの存在になっており、この点は現在の日本の公務員に共通する点かも知れない。その排除や解決が極めて難しいという点においても。
アーヤーンの台頭と時を同じくして、オスマン帝国スルタンによる西洋式軍隊「ニザーム・ジェディード」を組織するが、これを推進したセリム三世がイェニチェリに暗殺されるという事件が起こる。
1789年においては120000の兵を率いたイェニチェリがわずか8000のロシア兵に惨敗するという結果に終わっている訳だが、イェニチェリの強さはもはや敵国には発揮されず、自分たちの特権を守るためだけに機能するようになっていったということであろう。
それを侵害するものはスルタンであっても容赦しない。
もはや存在する意義を失ったイェニチェリを、セリム3世の後を継いだマフムト2世は潰すことにした。
マフムト2世が即位した当時、宰相のアレムダル・ムスタファ・パシャがイェニチェリの解体を実行するもこちらも暗殺されるが、マフムト2世は西洋式軍隊の創設を強行、イェニチェリの排除に成功する。
マフムト2世は間近で親しい2人がイェニチェリによって殺害されたのを見ており、慎重にことを進めていた。イェニチェリの要職に自分の息のかかったものを配置したり、不満分子は左遷し、ほとぼりの冷めたころにひっそりと処刑するなど派手な行動は基本的に避けていた。
マフムト2世が西洋式軍隊の創設を発表したのはアレムダルの処刑より実に18年の歳月が過ぎた時のことである。
この行動に反発したイェニチェリは武装蜂起し、マフムト2世相手に反乱を起こした。
が、これはマフムト2世の予想通りであった。まさに計算通り!
周到な準備をしていたマフムト2世はイスラムの長老と組んでイェニチェリをイスラム全体の敵と認定し、砲兵でもってイェニチェリ軍団を攻撃、あっという間に制圧を完了してしまった。
1826年、反乱に失敗したイェニチェリはその役目を終え、解体された。
イェニチェリ亡き後のオスマントルコ
残念ながらイェニチェリを失ったオスマン帝国はさらに軍事力の弱体化が進んでしまった。
イギリスやロシアの支援を受けたギリシャには独立されてしまうし、そのゴタゴタに乗じたムハンマド・アリーには単独で勝利することができなかったため最大の敵国であったロシアの手を借りざるを得ず、急速な近代化は多くのムスリムの反発を招き改革は失敗、オスマン帝国は「瀕死の重病人」という不名誉な綽名をつけられることになる。
やがてオスマン帝国はその領土のほとんどを失い、第一次世界大戦の終了と共に解体、その600年に渡る歴史に幕を閉じることとなった。
個人的にイェニチェリについて思うこと
導入当初においてイェニチェリはよく機能していた。メフメト2世の遠征やスレイマン大帝の栄光を支えたのは他ならぬイェニチェリであり、オスマン帝国の象徴とさえ言えた。
しかし最盛期はもはや衰退したもたらさない。
スレイマン大帝のもとで拡大したイェニチェリはもはやとどまることなく肥大化してしまい、もはやオスマン帝国を飲み込む存在へと変貌していった。
古代ローマ帝国を滅ぼしたのはゲルマン人というのが定説であるが、実際には内乱と肥大化した官僚組織が国を滅ぼしたと言える。
軍国社会においては増大する軍事力をいかに抑えるか、近代的社会においては肥大化する行政権をいかに抑えるかが国家の命運を分ける。
オスマン帝国は軍事権も行政権もイェニチェリに集中していた。そのため、その増長を抑えることが出来ず、近代化に失敗し、国が滅んだ。
これはわが国日本にとっても対岸の火事ではないだろう。
特権化した勢力を抑えるのは、かくも難しいものなのである。