ビザンツ帝国最大領土を達成したユスティニアヌス帝の業績と生涯について

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テオドシウス帝が死んだあと、ローマは東と西に分断された。アルカディウスが継いだ東ローマ帝国はコンスタンティノープルに都をおき、もはやローマをその領内に入れることはなく、ビザンツ帝国という呼び名で呼ばれることも多い。

そんなビザンツ帝国にあって唯一ローマをその領内に組み込むことに成功した皇帝がいた。

ビザンツ帝国の歴史の中で、日本の教科書でも唯一名前の残るユスティニアヌス帝である。

全盛期のローマ帝国に比肩する領土を獲得した、唯一の東ローマ帝国の皇帝についてくわしく見てみよう。

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 貧しき農民の子に生まれて踊り子テオドラと結婚する

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ユスティニアヌスはバルカン半島のマケドニアで農民の子供として生まれた。

そんな彼が東ローマ帝国の皇帝になれたのは伯父であるユスティニスが東ローマの皇帝となったからだ。

ユスティニスはたたき上げの軍人として活躍し、先帝アナスタシウスが後継者なしに死んでしまった後で東ローマの元老院の推挙を受けて皇帝となった人物で、その時すでに68歳であった。

ユスティニアヌスはこの伯父をよく助け、コンスルや東方司令官などの要職を歴任、、伯父が死ぬと皇帝に就任した。

皇帝に就任する2年前、ユスティニアヌスは踊り子のテオドラと結婚した。

東ローマ帝国の法律では皇族は一般人とは結婚できないことになっていたが、ユスティニアヌスは伯父を介して法律の方を変えてテオドラと結婚することにした。

テオドラはかなり気の強い女性で、後にニカの乱と言われる反乱が起きた際、逃げようとしたユスティニアヌスの前に立ち戦場から逃げ出すなんて皇帝として恥ずかしくないのか!と一喝した話は有名である。

ローマ法大全(ユスティニアヌス法典)

テオドシウス帝によってローマの文化は徹底的に破壊されたにも関わらず、ローマ法は現在の諸国家の法の手本となっている。これは偏にユスティニアヌス帝の功績である。

彼は4人の法学者に現存する全てのローマ法をまとめる作業を命じた。

その作業には6年の月日が必要だったと言われているが、それほどの短期間で事業を成し遂げられたのも、おそらくこの頃にはまだハドリアヌス帝のまとめた法典集が残っていたからではないかと言われている。

ローマ法大全はラテン語で編纂されているため、現代の法学者でもラテン語を学ぶ者は多い。

我が国の法律はフランス語やドイツ語、英語と言った言語を訳したものを使っているのだが、元々はラテン語から英語、もしくはギリシャ語から英語、そこから日本語に訳しているためその過程で意味が分からなくなっていることが多い。

なので日本語で法律の勉強をするよりも英語で読んだ方が理解しやすいことも結構ある。

学生時代、「当事者適格」というわかりにくい単語が英語では「standing」という言葉で表されると知った時翻訳の難しさを知った。

俺は法律が嫌いだが、失われしローマ法をまとめ、現在まで伝えているという事業は人類史の中でも光り輝く功績だと言えるだろう。

ハギア・ソフィア(聖ソフィア大聖堂)

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足利義満と言えば金閣寺であるように、ユスティニアヌスと言ったらハギア・ソフィアである。

これはキリスト教の聖堂であったのだが、1453年にオスマントルコがコンスタンティノープルを占領するとイスラム教のモスクになり、現在は当然の如くユネスコ世界遺産に認定されており、キリスト教としてもイスラム教としても利用されてはいない。

この建物を設計したのは高名な物理学者のイシドロスと高名な数学者であるアンテミオスの2人で、当時の技術の粋を集めた建造物だと言えよう。

北アフリカ侵攻

歴代ローマ皇帝は、例えばトラヤヌス帝などは遠征となれば自ら陣頭に立って戦場に赴いたが、ユスティニアヌス帝はそういうタイプではなく、戦闘は全てベリサリウスという天才将軍によってなされている。

このベルサリウスという将軍は共和政ローマの英雄たちに比肩するほどの能力を持っており、10倍以上の相手であっても撃破するという有能ぶりであった。

ユスティニアヌスの軍事的成功はこのベルサリウス無しではただの1つとして成しえなかったであろう。

ベルサリウスはわずか15000の兵で数十万人と言われるヴァンダル族と戦い(トリカマルンの戦い)、アフリカに上陸してなんとたったの2週間でヴァンダル王国を壊滅へと追いやっている。

ヴァンダル族はキリスト教の少数派ドナートゥス派と結びついてカトリックを迫害しており、当時の指導者層や富裕層がイタリアに逃げ込んでいたため国家としては機能不全を起こしていたと言われている。

一事が万事とはよく言ったもので、ユスティニアヌスは領土の拡大には熱心だったがその維持にはあまり関心がなかったようで、ヴァンダル王国が滅ぶとすぐにベリサリウスをイタリアの地に派遣している。

この辺りが征服以上に統治を優先したユリウス・カエサルとの違いであろう。

カエサルが征服した後のガリアは完璧に統治され、カエサルが留守にしても反乱などは起きなかったが、ビザンツ帝国の支配下の北アフリカでは反乱が頻繁に起きている。

イタリア侵攻

今度の主役もベリサリウスである。

テオドリック亡き後に王位を継いだ年少のアタラリック王が亡くなると、イタリア半島の政治は大いに乱れた。

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混乱収拾の名目でユスティニアヌスはベリサリウスをイタリアへと派遣した。ヴァンダル王国の征服が534年で、イタリア侵攻が535年なのであまりにも早すぎる上に、今度は兵数が7500人しかいなかった。

これは中国の名将である陳慶之が率いた兵の数と同じくらいで、かなり無茶な数字である。

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ユスティニアヌス自体には軍務経験がなかったためその辺りの感覚がなかったのか、それとも財政的に兵を集められなかったのか、どちらにしてもかなり酷い采配ではあるのだが、ベリサリウスはやはり天才であったようで、そのままシチリア島、ナポリ、ついでローマをあっという間に占領してしまう。

中世はよく暗黒時代と呼ばれるが、動員できる兵士数を見てもその衰退ぶりがよくわかる。長く続いた戦乱などによって、人口そのものも減少し、経済規模も縮小していた。それにも関わらず税負担はローマ帝国全盛期の何十倍にも膨れ上がっていて、しかも汚職も非常に多かった。

ユスティニアヌスはさらに失策を重ねる。

イタリアにもう一人の指揮官であるナルサルを派遣したのであった。

ナルセスもベリサリウスも優秀な将軍であったが、船頭多くして船山に上るという諺の通り、お互いに反目してしまいその間隙を突かれて東ゴート族にローマを取り返されてしまう。

ナルセスがユスティニアヌスの召還を受けると戦況は再びベリサリウスの方に傾き、見事ラヴェンナやローマをビザンツ帝国領とすることに成功したのである。

395年の分裂以来約150年ぶりに東西のローマが統一されたことになる。

ベリサリウスはコンスタンティノープルに戻り、凱旋席が催された。

ササン朝ペルシャとの闘い

東西に分裂してもローマの敵は常にペルシャとゲルマン人である。

ササン朝ペルシャは527年頃ビザンツ帝国領内に侵入してきた。530年のダラの戦いではベリサリウスによってササン朝ペルシャは撃破されたが、531年のカリニクムの戦いにおいては敗北し、ビザンツ帝国側が賠償金を支払うことによって不可侵条約が結ばれた。

しかし540年になるとペルシャ王ホスロー一世は不可侵条約を破棄し、再びビザンツ帝国の領内に侵入、ユスティニアヌスは再びベリサリウスを派遣しなんとかこの侵攻を食い止める。

しかしベリサリウスに帝位簒奪の意思ありとのデマを信じたのかベリサリウスを途中で解任、両者の戦いは泥沼と化しお互いに国力の消耗を招いただけの結果となった。

この90年後にビザンツ帝国はニネヴェを陥落させササン朝に大打撃を与えるが、結局はイスラム勢力にペルシャは支配されることになり、ビザンツ帝国自体も大いに衰退していく。

両国がこの時期に大きく国力を衰退させたことがその原因と言ってもよいであろう。

この戦いは15年ほども続き、お互いの和平条約が結ばれる。その後50年ほどはお互いの間に戦争のない状態が続くが、先述したように両国によって消耗の激しい戦いとなった。

再びイタリア侵攻

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ビザンツ帝国のイタリア支配は苛烈であった。恵はないのに重税だけ課される今の日本のような状態となり、人々の不満は募っていった。

そこへ再び力をつけた東ゴート族がやってくる。

ユスティニアヌスは再びベリサリウスを派遣するも兵力が明らかに足りず、中々結果が出せない。

思うに、ユスティニアヌスは東ゴート族よりも遥かにベリサリウスを恐れていたのではないだろうか。もしこの天才将軍に十分な兵力を与えコンスタンティノープルに反旗を翻したとしたら?

ユスティニアヌスはベリサリウスを解任し、今度はナルサスを司令官としてイタリアに派遣した。

ナルサスは精強でしられるランゴバルド族を傭兵に雇い、552年6月タジーナの戦いにおいてトーティラ率いる東ゴート族を撃破、以降イタリアでの覇権を握るのだが、この時に連れてきたランゴバルド族がイタリアで力を握り、568年にはこのランゴバルド族がイタリアの覇者となった。

宗教政策

ユスティニアヌス帝はカトリック以外の宗教を弾圧したことでも知られる。ギリシャやローマの神はもちろんユダヤ教徒への弾圧は徹底していて、さらに同じキリスト教であってもアタナシウス派以外の考えは徹底的に弾圧した。

特にユダヤ教徒への弾圧は激しく、ヘブライ語の使用を禁止にしたほどである。宗教裁判なども主導し、残虐な方法で処刑を施したことも知られている。

死去

ユスティニアヌス帝は483年に生まれ、565年に死んだ。83歳という長命は歴代ローマ皇帝にはない高齢であり、後年は功臣であるベリサリウスを牢獄に入れたり精彩を欠くことが多かった。

個人的なユスティニアヌスの評価

ユスティニアヌスは漢の武帝やブルボン朝のルイ14世に似ていると思う。

いたずらに勢力の拡大を目指して戦争を起こし、国庫を浪費し、人々に重税を押し付けた。

結果として死後に勢力を大きく失い、国は衰退した。

同じローマ皇帝と言っても統治まで完璧だったトラヤヌス帝とは程遠い。

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決して名君とは言えないであろう。

名君とは版図を拡大した者に与えられる称号ではなく、その領地に平和と繁栄をもたらす者のことである。

ユスティニアヌスの軍事的功績において言えばベルサリウスの功績であり、しかも彼の勢力拡大を恐れて十分な兵を与えなかったばかりか冷遇し、最後には投獄までしている。一方で宦官を優遇したり汚職を蔓延させたりと信賞必罰が徹底しているとは言い難い。

暴君かと言われると宗教的な弾圧を加えたこと以外はそこまで失政が多かった訳ではない。

ユスティニアヌスの功績は、やはり「ローマ法大全」に集約されるであろう。

この功績だけは、人類に光を与えた。他が大きくマイナスであったとしても評価されるべき事案であろう。

ナポレオンは「余の40回に及ぶ勝利よりも永遠に残る法典にこそ価値がある」と言ったが、ユスティニアヌスのしたあらゆる政策よりもローマ法大全にこそ価値があるというべきであろう。