オスマン帝国大宰相キョプリュリュ・メフメト・パシャ

オスマントルコはその建国期において大宰相の立場をチャンダルル家が占めてきた。やがて時は経ち、17世紀の後半からはこの地位にキョプリュリュ家が就き、以降世襲によってオスマン帝国の政治の実権を握っていくことになる。

 キョプリュリュ・メフメト・パシャ

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キョプリュリュ・メフメト・パシャが大宰相に就任した時、オスマン帝国は大きな混乱の時代にあった。

6歳の幼いスルタンであるメフメト4世を巡ってその祖母のキョセムと母であるトゥルハンが対立、それぞれが派閥を作って相争っていた。

祖母の側には当時オスマンで支配的であったカドゥザーデ派の面々が味方につき、それ以外が母についているという状態で、母であるトゥルハンが祖母キョセムを暗殺するという事件が起きた。「最も偉大な母后」と呼ばれた女性の末路である。

そのような内戦を経たオスマン帝国は確実に弱体化への道を歩んでおり、クレタ島を巡る争いでヴェネツィア共和国に大敗、イスタンブル近海に艦隊の出現を許してしまうと民衆はパニックに陥った。

そのような状態でオスマン帝国の実権を握ったトゥルハンが大宰相に任命したのがキョプリュリュ・メフメト・パシャであった。

彼が大宰相の地位に就いたとき、すでに年齢は80歳を超えていた。

元々はアルバニアのキリスト教徒の家に生まれ、デウシルメ制度によって徴用されると料理番に任命され、地方の官職を歴任、1647年には黒海沿岸のトラブゾンの総督に任命されるも反乱に鎮圧して捕虜になるなどその政務能力は優秀とは言い難かったようだ。

それがトゥルハンにとっては都合がよかったのかもしれない。この手の人間は、有能な人物よりも自分の言いなりになる人間を好む。

実際にキョプリュリュを推薦したのは同郷のトゥルハンの付き人だったと言われており、この頃の彼は妻の出身地であるキョプリュリュに滞在していたという。彼の名前キョプリュリュはここから来ているらしい。

大宰相に就任したキョプリュリュが最初にやったことは粛正である。

トゥルハンに敵対していたカドゥザーデ派の面々を次々と追放し、イスタンブル大司教の処刑、スルタンに従順ではなかった常備騎兵団も解散、各地で起こった反乱も徹底的に弾圧し、ヴェネツィア艦隊も撃退、「剣の主」とたたえられた一方でその激しい粛正は批判の的ともなった。

キョプリュリュがここまで強権を発動できた背景には、大宰相府が独立していたことがあり、これ以降オスマン帝国の実際の政務は大宰相府がとりしきることになる。

大宰相を頂点とした官僚制度がこの時代に整備され、大宰相位は代々キョプリュリュ家に世襲されることになる。

キョプリュリュは反対派を一掃すると息子であるファーズル・アフメト・パシャに家督を譲り、1661年にこの世を去った。

息子のアフメトはオスマン帝国の大宰相として活躍し、オーストリアとの闘いを有利に進め、オスマン側に有利な内容でヴァスヴァル条約を結び、ヴェネツィアからクレタ島を奪取することに成功する。

これによってオスマン帝国は東地中海の制海権を完全に握り、同時にオスマン帝国の最大領土を実現する。

歴史家によっては、オスマン帝国の最盛期はスレイマン大帝の時代ではなく、最大版図を実現したメフメト4世およびファーズル・アフメト・パシャの時代だと考える者もいる。

しかし最盛期を迎えた帝国は衰退期を迎えることになる。絶大な力をもったオスマントルコと言えども、その例外ではいられなかったことは、歴史が証明してしまっている。