名誉革命、アメリカ独立戦争と共に世界三大革命と呼ばれるフランス革命であるが、他の2つの革命と決定的に違うのは国王が処刑された点である。
フランス革命の発端を考える時、ルイ16世が開いた「三部会」がその始まりと言える。ルイ16世はいわば改革派の国王であり、自らが推進した改革によって最終的には処刑されてしまったのだから皮肉と言えるかも知れない。
ヴァレンヌ逃亡事件にて国民の信頼を失う
フランス革命当初、フランス国民は改革派であるルイ16世を歓迎し、敬っていた。革命が起きた当時は誰も国王の処刑など考えず、立憲民主政を目指しており、最初の「国民議会」などは正式名称「憲法制定国民議会」であり、当初は憲法の制定をめざしていたはずだったのだ。
どこから歯車が狂ったのかだが、最初から歯車は狂っていたと言えるだろう。
国内の貴族や司祭階級は民衆を押さえつけることにしか興味はなかったし、革命はいわばフランス国内で主流ではない下級貴族たちによって担われており、恐らく当初は簡単につぶせると思っていたのだろう。それが変わったのはパリ市民がバスチーユ監獄を襲った事件が起きてからである。
バスチーユ監獄の監督官ローネー侯爵やパリ市長であったジャック・ド・フレッセルが処刑されると王侯貴族たちはこぞって国外に逃亡した。後にシャルル10世となるアルトワ伯爵などはこの時点で亡命している。
そのような中ルイ16世は国内に残った。
「王たるものは国民から逃げ出すものではない」
しかし王党派の代表格であったミラボーが死んでしまったあたりから流れが変わり、ルイ16世はついに家族と共にヴァレンヌ逃亡事件を起こしてしまう。
この事件を知った国民達は失望し、酷く怒った。もはや国王は自分達を見捨てたのだと。そのような王は必要なのだろうか?
板挟みになっていたルイ16世
ルイ16世自体は立憲君主制にどちらかと言えば賛同していたと言われるが、その妻であるマリー・アントワネットはそうでなかった。ヨーロッパ最強の貴族ハプスブルク家出身の彼女は民衆など自分の所有物に過ぎないと考えていたのだろう。そしてもう一人、後にルイ18世となる王弟も改革には反対していた。
さらに民衆の側も一枚岩ではなかった。あくまで王政の存続を目指すもの、憲法を制定して立憲君主制を目指すもの、王族を完全に排除しようとするもの、様々な者たちがフランス革命には参加していた。
そのような中、ルイ16世一家は長年親しんだヴェルサイユ宮殿からパリのティリリュー宮殿に移され、王の権限は徐々に削られていった。ルイ16世がヴァレンヌ逃亡事件を企てたのにはそのような背景があったのだ。
もっとも、逃亡事件を企てたのはルイ16世というよりマリー・アントワネットだったという方がしっくりくるかも知れない。実際逃亡を手引きしようとしたのはマリー・アントワネットの愛人フェルセンであったのだから。
ルイ16世はマリー・アントワネットの意向に従っただけだも言われている。ルイ16世はブルボン朝の王で歴代唯一1人の愛人も作らなかったことで知られる。生涯愛したのは妻のマリー・アントワネットだけであったという。妻への愛で身を滅ぼしてしまった。ルイ16世とはつまりそういう人物であったともいえる。
バルナーブによるねつ造
ヴァレンヌ逃亡事件は立憲君主制を目指していた一派フイヤン派にとって大変不都合であった。国王排除すべしの声が大きくなっていたからだ。
そこでフイヤン派の首領バルナーブは「国王は自分の意思で逃げたのではなく誘拐されたのだ」と主張した。もちろん完全なねつ造である。パルナーブは死んでしまったミラボーの後継者として国王一家をなんとか守れないかと奮闘していたのだ。
それにバルナーブはもはや革命は完成一歩前だと認識していた。後は憲法さえ制定すればよいと。
1791年憲法
パリの民衆はヴァレンヌ逃亡事件の後共和政を求める集会を開いた。
共和政は決して近代だけのものではなく、古くは紀元前のローマやアテネで実施されており、ユリウス・カエサルのガリア遠征以来古代ローマの後継者たるフランスにおいては革命前から共和政を求める流れがあった。
しかし国民衛兵軍は武力をもって集会を解散させ、あまつさえ発砲までした。その結果死者は50人を越え、共和派のメンバーは事件に関連して逮捕されることになった。後に恐怖政治で世界を恐怖の底に突き落としたロベスピエールなどはこの時逮捕されかけたが、運よく逃亡に成功している。
共和政を排除した国会において、立憲民主政を旨とした「1791年憲法」が制定された。
これにより主権者は国王から国民に移り、ルイ16世は臣民に対して忠誠を誓う宣誓を行った。しかしこの時王座は用意されておらず、式が終わった後ルイ16世は一人号泣したという。
それでも革命は終わった。フランスもイギリスのように立憲民主政の国として国王と議会が協調しながら政治を行っていくはずだった。
それなのになぜルイ16世は処刑されねばならなかったのだろうか?
対外戦争
20世紀半ば、「ドミノ理論」という理論が叫ばれた。内容は1国共産主義革命がおこるとその周辺諸国にドミノ倒しのように共産主義が拡散するというものであった。
清教徒革命や名誉革命が起きた時、そのような事態にはならなかった。革命が起きたのはイギリスだけであり、それらが拡散することはなかったのだ。
しかし今回は大陸で起きた革命であった。フランスの隣国オーストリアとプロイセンはヴァレンヌ逃亡事件を受けて「ピルニッツ宣言」を出す。
これは国王に手を出せばプロイセンとオーストリアがフランスに攻め込むという脅しである。
フランス国民はこれに過剰ともいえる反応を見せた。
「国王は近隣諸国と結んで革命を潰そうとしている」
そのような噂が流れた。あるい意味それは噂だけではなく、マリー・アントワネットは実家であるオーストリアに軍事機密などの情報を流していたため事実でもあった訳だが、国内では諸外国に対し自由の為の戦争を行うべく「自由の十字軍」を結成して周辺諸国との戦争を決意する。
フランスは沸き立った。誰もが戦争に賛成しており、開戦に反対していた人物は1人しかいなかったという。
その者の名はロベスピエール。
「国外の敵より先に国内の敵を片付けるべきだ」
ロベスピエールはそう主張した。ご存知の通りロベスピエールは後にそれを冷徹に実行し、最後は自らが国家の敵として歴史のかなたに葬られることになる。
王室も民衆とは違う意味で戦争を支持していた。
急増の革命軍がオーストリアなどの近代式軍隊に勝てるわけもなく、そうなればハプスブルク家が自分たちを助けてくれる。そう考えていた。
実際フランス軍は連戦して連敗した。オーストリアの軍隊には亡命したフランス貴族も混ざっており、国内の反革命派も色づいた。
そのような中、国会で出された2つの法案が国王によって拒否されるという事件が起こる。
テュイルリー宮殿の攻防戦
1791年憲法においてフランス国王には「ヴェトー(拒否権)」が与えられていた。フランス王権は元々古代ローマの護民官の流れを組んでいる部分もあり、それはローマ皇帝に受け継がれ、ブルボン家にも認められた数少ない権利でもあった。
法案の中身は司祭を国外に追放することを決めた法律と地方から徴兵した兵士をパリに駐屯させる法律であった。
ルイ16世がフランスの敗北を期待していることはこれで明らかになった。
国王はさらに内務大臣ロランを更迭、これが決定的な契機となってしまう。
内務大臣のロランは国王を排除したかったわけではなく、国王に自重して欲しかったため、手紙を国王に書いた。正確にはロランの夫人が書いた。ロラン夫人はこの時期の革命勢力の実質的な指導者で、夫の陰につきあらゆる政策を決めていたという。
マリー・アントワネットはそれが気に入らなかったという。内容がどうこうというよりも、彫金師の娘風情が自分に意見するのが気に入らなかった。ルイ16世はマリー・アントワネットの言うことには盲目的に従った。たとえそれが自らの身を亡ぼすことになろうとも。
ロラン(夫人)が国王に向けて書いた手紙の写しは印刷され、フランス全土に出回った。ロランは一躍ヒーローになり、国王は一躍悪役になった。
パリ民衆は武装蜂起し、国王一家の住むテュイルリー宮殿に向けて進軍していった。
それを阻止しようとプロイセンの軍が動き出し、国会は「国家の危機」を宣言、この時マルセイユから来た兵団は革命歌を歌いながら進軍していた。その革命歌は現在のフランス国家「ラ・マルセエーズ」である。
宮殿は陥落し、国会は王権の停止を宣言、国王一家はタンプル塔に押し込められることになった。
これを見て国王派だったバルナーブやフランス革命の英雄ラ・ファイエットはフランスから逃げ出す事態になった。
ルイ16世裁判
フランス国民にとっては幸いなことに、国王にとっては不幸なことに、革命軍はヴァルミーの戦いにおいて初めてオーストリアに勝利した。
戦いに参戦していたゲーテは「この時、この瞬間から世界の歴史が始まる」という言葉を述べている。
さらに時を同じくしてルイ16世が隠し棚を使って外国と密通していたということが判明する。
そのような中国民公会はルイ16世の裁判を開始した。
この頃には国民公会の内部でジロンド派とロベスピエール率いるジャコバン派が対立するようになっており、国王裁判の行方についても両党は真っ向から対立した。
ロベスピエールは従来より共和政の完成と国王の処刑を主張しており、その片腕ともいえるサン・ジュストという人物は以下のような演説をしている。
「人は罪無くして国王たりえない。国王という者は全て反逆者であり簒奪者である」
隠し棚の存在はその演説の1週間後に公表された。
これで流れは決まったようなものだったが、それでも票は割れた。
最終的にはわずか1票差で国王の処刑が決まった。
国王ルイ16世は執行人サンソンにより処刑された。
「フランス人よ、あなた方の王は今まさにあなた方のために死のうとしている。私の血が、あなた方の幸福を確固たるものにしますように。私は罪無くして死ぬ」
これが国王ルイ16世の最期の言葉だったという。
このような処刑が果たして正義であっただろうか?
もはや正義を失ったフランス革命は、この事件を機に暴走していく。