オスマン帝国第5代スルタン「メフメト1世」と空位時代について

アンカラの戦いでバヤズィット一世が捕えられるとオスマン帝国は崩壊の危機を迎えた。

明確な後継者のいないオスマン帝国は4人の王子による内紛時代、通称空位時代が始まったのだ。

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骨肉の空位時代

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アンカラの戦いによる敗北でオスマン帝国が被った被害は甚大だった。

バヤズィットの王子たちのうちムスタファは父と共にティムールに捕えられ、ユーフスはビザンツ帝国に亡命、残ったスレイマン、メフメト、ムーサー、イーサーの4人は互いに王位継承戦争に参加した。

4人のうち圧倒的な力を誇ったのがスレイマンだった。

彼はバルカンを拠点とし、大宰相チャンダルルに支えられイエニティリをその手中に収めており、オスマン帝国内の豪族たちもこれに従う構えを見せた。

一方アナトリアではメフメトとイーサーの争いがおこり、メフメトはティムールに対し恭順する姿勢を取りながらイーサーを攻撃、その本拠地であったブルサを占領しイーサーは敗死、メフメトはアナトリアの覇者となった。

メフメトは父と共にアンカラの戦いに参加しており、命からがら戦場を逃げ延び、伝統的なガーズィ(信仰の戦士)を旗印に勢力を拡大、バルカンのスレイマンと対決する姿勢を見せる。

されどスレイマンの力は圧倒的で、アナトリアに侵攻するやブルサを攻略され、メフメト陣営は大幅に後退、追い詰められたメフメトは仇敵ともいえるカラマン侯国と同盟を結びスレイマンの侵攻を退け、同時にティムールによってオスマン帝国から独立していたアナトリア諸部族を再び臣従させることに成功。

さらにティムールに捕まっていた弟のムーサーをバルカン半島に派遣し、スレイマンに敵対するセルビアやワラキアと言った国々と同盟を結び、背後からスレイマンを攻撃させた。

挟撃を食らう形になったスレイマンは戦死し、オスマン帝国第6代スルタンはメフメト一世に決まった。

帝国領土の再統一

メフメト一世の治世は父バヤジィットの領土回復のために費やされた。

スルタンとなったメフメト一世は再びアナトリアに戻り、カラマン侯国との闘いやヴェネツィア艦隊との闘いなどに勝利することに成功。

やがてティムールに捕まっていたとされるムスタファがメフメト一世に戦いを挑む。

このムスタファが本物なのか偽物なのかは実は現在でもわかっていない。オスマン帝国の弱体化のためにあえてティムール側が本物を解放したという説もあれば全くの偽物であったとする説もある。

メフメト一世はムスタファを破ることに成功するが1421年突如没してしまう。

個人的なメフメト一世の評価

彼の治世はティムールによって受けた被害を回復することに終始していた。

アンカラでの勝利ののちティムールはアナトリア侵攻を放棄したが、その傷跡は甚大で、王子同士の争いを招いてしまった。

もしこの戦いが長引いていたら、後のオスマン帝国の繁栄はなかったであろう。

そういう意味ではメフメト一世はオスマン帝国の救世主だったかもしれない。

事実メフメト一世は以前の領土を回復することに成功し、滅亡の危機にあったオスマン帝国を再び繁栄の道へと戻したのだから。