イェニチェリの創設者!オスマン帝国第三代ムラト一世の活躍をご覧ください

オスマントルコの歴史はイエニチェリの歴史だと言っても過言ではない。

そんなイエニチェリは三代目であるムラト一世の時に作られた。

父オルハンの跡を継ぎ、オスマン帝国の名をヨーロッパ世界に知らしめたのもまたムラト一世だったと言えるだろう。

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 アドリアノープル(ハドリアノポリス)征服

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オルハンが亡くなり、王子であるムラトとハリルの間に後継者争いが起こった。

ハリルの母はビザンツ帝国皇帝ヨハネス6世の娘テオドラであり、ムラトの母はニルフェルという奴隷出身の女性であり、どちらの母親もキリスト教徒である。

オスマン帝国の後世にも続く慣習として母の地位が後継者争いに何らの影響も与えないというものがあるが、この時も母の出自は後継者争いに何らの影響も与えなかったようだ。

同じ騎馬民族であるモンゴルにおいては母の貴賤が何よりも後継者争いに重要だった点とは大きく異なる。これはトルコ民族としての慣習よりもイスラム法が大きく影響したとみられ、アッバース朝歴代カリフの母のほとんどが奴隷出身であったことも知られている。

ムラトの母ニルフェルは英明な女性であったようで、有名な旅行家イブン・バットゥータが来訪した際には彼女が対応したという記載が残っている。

両者の争いがどのようなものであったかは現代でもほとんど知られていないが、数年単位で争っていたことは知られており、後継者はムラトに決まった。

ムラトはさっそくビザンツ帝国領のアドリアノープルを攻め、これを陥落させる。

紀元2世紀にハドリアヌス帝が建設したこの都市も、これを機にトルコの都市エディルネとして名を変え、イスラム世界の住人となった。

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エディルネを征服したムラト一世はアナトリアに散らばるトルコ系諸部族の王と次々に併合、もしくは同盟関係を結ぶ。有力部族であったカレスィ族を権力争いに乗じて併合、ゲルミアヤン国の王女と息子のバヤジッドを婚姻させ、アイドゥン国やハミト国と言った有力部族国家も次々にオスマンへの服従を申し出た。

それらと前後してバルカン半島に攻め込み、トラキア地方を併合、これに危機を感じたローマ教皇ウルバヌス5世は反オスマン十字軍を結成、ハンガリー、ブルガリア、セルビアなどの連合軍とムラト率いるオスマン軍はマリツァ河畔にて激突、見事に勝利を収める。

マリツァの戦いはトルコ側からはスルプ・スンドゥの戦いと呼ばれていて、これはセルビ大崩壊を意味するのだという。

ハーン位の継承

ムラト一世の時代、イル・ハン国が滅びた。

イル・ハン国はチンギス・ハーンの孫であるフラグがアッバース朝を滅ぼして建国した国で、ペルシャ地方を統べ、君主がイスラム教に改宗したことを期にイスラム国家の名手的な地位に君臨していた。有名なイスラムの歴史家ラシード・ウッディーンもこのイル・ハン国の住人であった。

アナトリアからは距離のあるペルシャ地方であるが、ムラトの父オルハンの時代にはイル・ハン国に朝貢していた記録があり、その勢力の強さがうかがえる。

イル・ハン国も他のモンゴル諸王朝同様内紛の末に滅亡した。ムラト一世はイル・ハン国の滅亡した時期より自らもハーンの名を語るようになる。

トルコ民族も元をたどればモンゴル高原に出自があると言われ、イル・ハン国からイスラムそして遊牧民族達の盟主的な地位を受け継いだという宣言であったのだろう。

同時に、オルハンの時代までは諸侯を表す「ベイ」という呼称を使用していたが、この頃より王を表す「スルタン」を名乗るようになる。

サウジの反乱

 サウジと言ってももちろんサウジアラビアとは無関係で、ムラトの息子の名前である。

このサウジ王子がビザンツ帝国王子アンドロニコスと共謀してムラト一世に牙をむいた。

反乱は鎮圧され、サウジは命だけは助かったものの両眼を潰され、王位継承権は無くなった。

バルカン征服と死

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ムラト一世の勢いは止まらない。

早々にブルガリアを支配下におき、ギリシャのテッサロニキもオスマンの支配下に入った。

このことに恐怖を感じたビザンツ帝国皇帝マヌエル2世はムラトに臣従の意を示す。

ムラトはセルビアとの決戦に臨み、コソヴォの戦いで歴史的な大勝利を収めることに成功した。

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戦後、セルビア貴族ミロシュ・オビリチがムラト一世に投降してきた。

気をよくしたムラトであったが、ミロシュは懐に武器を隠し持っていて、ムラト一世を刺し殺してしまったのだった。

以後、オスマン帝国のスルタンが人と会う際には従者に両手をつかませるという慣例がしかれるようになる。

ムラト一世とイエニチェリ

オスマントルコの強さの秘訣は常備軍であるイエニチェリにあると言われる。そのイエニチェリを整備したのがムラト一世である。

常備軍自体は父オルハンの頃から構想があったようで、ムラト一世の時代に獲得した敵国の兵士を奴隷とし、常備軍であるイエニチェリに編入するようになった。

軍人奴隷の制度自体はイスラム世界に広く知れ渡った概念で、マムルークと言われる軍人奴隷がマムルーク朝を建国したということもある。

マムルークとイエニチェリの違いは、前者は解放されることがあるのに対し後者は解放されることはないが特権的な地位が与えられるというところであろうか。

基本的には敵国の兵士だったものなのでキリスト教徒であったが、捕えられイスラム教に改宗させ、トルコ語を習得させるとともに訓練を施し戦闘に参加させる制度で、従来騎馬民族であったトルコ軍の主力は騎馬部隊からイエニチェリによる歩兵部隊に移ることになる。

やがて時代が進み、銃火器での武装が一般的になるとトルコにもそれが導入され、西欧諸国を圧倒するようになっていく。

個人的なムラト一世の評価

ムラト一世には親族間における血なまぐさいイメージがつくが、その功績は非常に大きい。

特にバルカン半島の征服においてはその活躍が大きく、多くの優秀な将軍や宰相を起用しオスマン帝国を世界的な国家へとのし上げた。

一方これらの国々においてはイスラム教、キリスト教徒が入り乱れることになり、20世紀における民族紛争の火元になったと言っても良いかも知れない。

このことはオスマン帝国がキリスト教徒に対し寛容な政策をとった結果であり、征服地にむりやり改宗を迫るような政策を採用していたら現在のバルカン半島はイスラム教一色であったかも知れない。

そういうことまで考えていくと、歴史というのは複雑である。

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