唯一引退したオスマン帝国第6代ムラト二世の戦いに明け暮れた人生について

メフメト一世の跡を継いだのがムラト二世な訳だが、メフメト一世はその死に際して以下のような遺言を残している。

「ムラトはアナトリアを支配し、弟ムスタファはバルカン半島を、幼いユーフスとマフムトはビザンツ帝国の保護を受けるように」

ムラト二世はこの遺言を無視した。

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 2人のムスタファとの闘い

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父メフメト一世は兄弟にあたるムスタファの乱を完全には制圧できていなかった。それに加えて弟のムスタファとも争うことになり、ムラト二世は2人のムスタファを相手に戦うことになる。

王位継承のタイミングを見計らってアナトリアの諸侯も独立の機運を見せており、ムラト二世は即位と共に滅亡の危機に瀕してしまう。

並の君主であったらオスマン帝国は滅んでしまっていたかも知れない。

だがムラト二世は並の君主ではなかった。

アナトリア諸侯を次々に臣従させると東ローマ帝国が背後につく偽ムスタファとの闘いに臨む。

この際、地中海に大きな影響力を持つイタリアの都市国家ジェノヴァもオスマン帝国に味方し、1422年には偽ムスタファに勝利することが出来た。

そのままビザンツ帝国を攻めると勝利し、滅亡寸前に追い込むがバルカン半島に根を張るワラキア公国および弟のムスタファとの闘いに向かうたったためビザンツ帝国は滅亡を免れた。

1423年には弟ムスタファに勝利し、偽ムスタファ同様処刑し、残った二人の弟ユーフスとマフムトの目を潰しスルタンになる資格を奪い、ようやくその治世は安定を迎える。

退位

やがて時は経ち、ムスタファの後継者と目されていた王子アラエッティンが謎の不審死をとげるという事件が起こった。

死因などは不明だが、暗殺とする説が根強い。

この事件が影響したのかは不明だが、ムラト二世は残された息子であるメフメトにスルタンの位を譲り自身は引退してしまう。

オスマン帝国600年の歴史の中で引退したスルタンはこのムラト2世だけである。

なぜ彼が引退したのかについては諸説あるが、息子の死にショックを受けたという説とメフメトの王位を固めるためという説がある。

オスマン帝国のこれまでの歴史は王位継承の際一族が殺しあった歴史でもある。ムラト2世自体も弟を殺害しており、それを避けたかったのかも知れない。

とはいえこの時メフメトは12歳であり、国を治めるには無理があり、政権は実質大宰相であったチャンダルル・ハリル・パシャが握っていた。

これを好機ととらえた者たちがいた。

アナトリア諸侯とヨーロッパ諸国である。

政権交代の瞬間を握ってアナトリアの諸侯はオスマン領に侵攻し、ハンガリーとワラキア公国も同時に侵攻、そして祖父バヤジィット一世の遺児であるユーフスの息子であるオルハンがビザンツ帝国の助力を得てオスマン帝国への攻撃を開始、事態を問題視したイエニチェリが反乱を起こすという事態にまで発展した。

四面楚歌となったオスマン帝国では再びムラト二世が復位し、これらの諸勢力との闘いに臨んだ。コソヴォの戦いでキリスト教連合軍に勝利し、アナトリア諸侯との間に婚礼の儀をもうけるなどして自体は沈静化され、それを見届けたようにムラト2世は1451年に永眠した。

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個人的なムラト二世の評価

難しい時代に国家を盛り返したその手腕は非凡であった。

通常、三代目までは優秀な君主が続くが、4代目からは大きく崩れるのが王朝の歴史というものであるが、愛新覚羅朝とも言えるヌルハチが始めた清朝とオスマン帝国に関してだけは世界史でも例外的に優秀な君主が続いた。

ムラト二世も文句なしに優秀な君主と言え、四面楚歌ともいえる状態を凌いだだけでなく、国を大いに発展させることに成功している。

世界史的に見ても指折りに優秀だと言えるだろう。