「ネルヴァ、トラヤヌス、ハドリアヌス、アントニウス・ピウス、マルクス・アントニヌス・アウレリウス」の5人のローマ皇帝を5賢帝と言い、ローマ帝国はこの時代に最盛期を迎えた。ということを世界史選択者はある意味無味乾燥に覚えなければならないのだが、この人たちが一体何をしたのかを知っている人は少ないのではないだろうか?
という訳で今回から5賢帝についての記事を書いていきたいと思う。
まずは5賢帝最初の1人である「ネルヴァ」から。
ちなみにラテン語は勝利の女神メネルウァをはじめバビブベボを発音しないので「ネルウァ」が正しいのだが、俺が受験生の時はネルヴァで覚えたのでこの記事ではネルヴァで統一したいと思うからあらかじめ了承してくれ!
ネルヴァって何した皇帝なの?
この問に答えられる受験生は恐らくいない。それもそのはずでネルヴァの在位期間はたったの1年と4か月にすぎず、派手な政策などは行われていない。それでも世界史の教科書に名前が載っているのだから大したものである。
ネルヴァが皇帝になったのは60を過ぎたころで、先帝であるドミティアヌスが暗殺されたその日に皇帝位についている。
このことからネルヴァがドミティアヌス帝を暗殺したのではないかという噂がローマ全体に流れたほどであり、歴史的にも論議の対象になっている点である。
ただ、ネルヴァの性格などを考えるに暗殺という手段に訴えるということはなかっただろうと思う。
歴史上、血筋でなく王や皇帝になる人物には2通りの種類がいると思っている。
1つは野心や権力欲でもってその地位に就く人間。中国史で言えば項羽や曹操などがこれにあたるし、ドミティアヌス帝をはじめローマ皇帝にもこの種類の人間が多い。
もう1つは周りから推される人物で、権力欲などはない人物。ローマ2代目の王ヌマや今回の主役であるネルヴァもこのタイプの人物だと言える。
ネルヴァを皇帝に仕立て上げたのは元老院である。
帝政ローマの歴史は暴君が出る→元老院が暗殺するの繰り返しで、帝政が始まる前のカエサルの時代から元老院による暗殺は多発している。
元老院というとものすごい力を持っていそうであるが、実は行政上の権利は有しておらず、行政を司る役職に助言を与えるのがその責務であり、現代日本における内閣不信任決議のような制度はない。
それゆえに行政権である皇帝権力が暴走した際には暗殺という手段にでるしかないのだ。
元老院によるドミティアヌス帝の暗殺はかなり計画的に行われていたようで、その日のうちにネルヴァのところに使いが出て、次の日には元老院の承認がでた挙句ドミティアヌス帝を「記録抹消刑(ダムナティオ・メモリアエ)」に処することを決めているぐらいである。
この記憶抹消刑は映画テルマエ・ロマエにも出てきていたから聞いたことがある人も多いかも知れない。文字通りローマの公式的な記録からその記載を一切削除する刑罰で、当然の如くものすごく思い。
このような状態で皇帝になったネルヴァはまず真っ先に「殺さぬ誓い」を表明し自身の治世の間は元老院議員を殺さないという政策を発表した。
先述した通り帝政ローマは元老院と皇帝がお互いに粛正しあっていて、元老院側は皇帝の暗殺を、皇帝側は国家反逆罪を用いてお互いを排除していた。ティベリウスが後年酷い評価をされているのもこの国家反逆罪を多用したからであると言われている。
5賢帝の時代が「パクス・ロマーナ(ローマの平和)」と言われるのは5人の皇帝がこの殺さぬ誓いを守ったからだとも言われていて、ネルヴァがそれを最初に表明したのである。
ネルヴァはドミティアヌス帝の資産を没収するとそれをローマ市民に分け与えた一方で戦車競走や剣闘士などを中止にするなど財政の健全化にも取り組んでいて、主に内政重視の政策を行った。
軍事面においてはあまり自信がなかったのか自身と同じ軍事大権をその治世中にトラヤヌスに与えていて、在位が短かったこともあって特に功績などはない。ただ、後継者としてローマ帝国全盛期を築いたトラヤヌスを指名していたのはネルヴァ最大の功績とも言えるかもしれない。
ネルヴァの人生について
ネルヴァはイタリア中部の都市ナルニアで生まれた。家系は代々続く元老院の家系で、祖父はティベリウスがカプリ島に引きこもった時に随行している知識人の1人で、かなり見識深い人物であったようだ。母方の祖父も執政官経験があるとされる。
ネルヴァが歴史の表舞台に出てくるのはネロ帝の時代で、プラエトル(法務官)に任命されたのを皮切りに政治の世界に深くかかわるようになる。
この頃ネロ帝の暗殺(ピソの陰謀)を未然に防いだ功績で元老院内の地位を確かなものにし、ローマに胸像が建てられている。
この頃に後の皇帝となるウェスパシアヌスと懇意になりその息子であるドミティアヌスの教育を任されたという。自ら教育を施したドミティアヌスが暗殺された時のネルヴァがどのような気持ちであったか、それを知るものもそれを示す資料も存在しない。記憶抹消刑恐るべし!
ドミティアヌス帝はネルヴァには深い信任をおいていたようで、執政官へと任命している。
コンスルと言われる執政官の性格は帝政においては共和政と性格を異にしていて、帝政期においては皇帝が推薦すれば大体その人物に決まるようになっていた。
ドミティアヌスの暗殺により皇帝となったネルヴァに対し、ローマ市民や元老院は好意的であった一方近衛兵をはじめとした軍部の支持は得られていなかった。
近衛隊長であるカスペリウスはある時ネルヴァを監禁するという暴挙に出てしまう。ネルヴァはカスペリウスの要求をほぼ全面的に受け入れ、皇帝監禁の行為を称賛する演説までさせられてしまった上に先帝暗殺の実行犯を処刑することになってしまった。
更には後継者問題において軍部の支持の厚いトラヤヌスにすることをも要求される。
子供のいないネルヴァは当初シリア総督ニグリヌスを後継者にしようとしていた節があるが、この件でトラヤヌスを後継者にしたのだという話もある。あるいはそれ以前からトラヤヌスを後継者に考えていたという話もあるのでこの点はよくわからない。
トラヤヌスは初の属州出身の皇帝として知られているが、ネルヴァまでの皇帝はローマを含む第1州の出身者でありその慣例を打ち破ったことになる。
この辺りの議論はいまだに決着を見ないが、どのみちトラヤヌスの皇帝就任はローマにとって成功だったと言って良いだろう。トラヤヌスについてはまた別記事で語るとして、ネルヴァは後年失墜してしまったというのは確かであり、心労がたたったのか即位からわずか1年と4か月で脳卒中で倒れてしまう。
個人的なネルヴァの評価
ネルヴァの評価は今、揺れている。
従来の5賢帝のイメージと実際の治世には開きがあるのではないかという意見が出ているのだ。実際ネルヴァにはあまり功績がない。最終的には軍部の要求に従っているしその要求に従って次の皇帝を決めたとする点は批判されがちである。
歴代ローマ皇帝は軍部に重きを置いているが、ネルヴァはどちらかというと文民で、現代のシヴィリアンコントロールの観点からすると軍部に屈した点が評価を下げているのかも知れない。
ただ、ネルヴァが後に連なる優秀な皇帝およびその治世の基礎を築いたという点は間違いのない事実であろう。完全に守れたとは言い難いが殺さずの誓いを表明し元老院と皇帝権の融和を図った点は評価すべき対象であろう。
5賢帝の時代についてい大英帝国全盛期の歴史家ギボンは以下のように述べている。
「仮にもし世界史にあって、最も人類が降伏であり、また反映した時期とはいつか? その問いに答えを求められるのなら、私は少しの躊躇もなくドミティアヌス帝死後から始まりコンモドゥス帝の即位にいたるこの一時期と答えるであろう。広大なローマ帝国の全領土が、解くと知恵によって導かれた絶対権力の許で統治されていた」
でたらめな連中の多いローマの皇帝の中でもネルヴァはかなりまともな皇帝で、クラウディウス朝やフラティウス朝によって混乱したローマを立て直した一級の人物であると言って良いと思う。
ドミティアヌス帝の記録が抹消されている関係かネルヴァに関しては資料が少なく、またどのような人物であったかは見えにくい。
あるいは狡猾な政治家としての顔も見せ、あるいは市民や元老院、軍部の対立に四苦八苦している老人の顔も見える。
ある時代では賢帝として評価され、ある時代では先帝暗殺犯として非難を受ける。ある時代では民主制の敵とみなされある時には軍部に屈した情けのない老人とみなされてしまうこともあるだろう。
ネルヴァの評価はある意味、その時代を表す鏡のようなものなのかも知れない。
歴史とはある意味、現代史を映す鏡なのだ。