世界史上、その評価が揺れる人物は多いが、清教徒革命の中心人物となったオリバー・クロムウェルはその代表とも言える。
ジェントリ階級の名門
オリバー・クロムウェルは1599年ジェントリ階級としてイングランドに生まれた。
イギリスでは現在でも厳しい身分階級が守られている国であり、貴族とそうでない者にはさまざまな面で格差が存在している。
そのような中ジェントリは貴族ではなかったが地主として力と財産を持っており、その発言力は日に日に強まっていた。
生まれつきのピューリタンでもあるオリバーはケンブリッジ大学で学び、1628年に庶民議会の議員になる。
当時からイギリスは庶民院と貴族院の二院制で、このように二つの議院が並ぶ方式はアメリカや日本なども後に採用している。
1628年と言えば有名な「権利の請願」が出された年であり、そして次の1629年はチャールズ一世が議会を解散した年である。
議員職を失った形のクロムウェルは故郷に帰り判事を務めながら農場の経営に精を出した。
やがてスコットランドの反乱をきっかけにチャールズ一世が議会を開くとクロムウェルも議員に当選、分裂する議会においてクロムウェルは国王を排除し議会を中心とした政治を目指す議会派に所属、国王派の議員および国王と激しく対立した。
国王軍との戦い
チャールズ一世は反対する議会派を粛正すべく国王軍を議会に差し向けた。
エッジヒルの戦いにおいては国王軍が議会軍を破るが、クロムウェルは私財を投じて1000人からなる軍団を組織し、その部隊は鉄騎隊とよばれるようになる。
クロムウェルの戦闘の強さは異常である。世界史的にみてもここまで他を圧倒した人物は少ない。勝率などで考えればナポレオンなど問題ではなく、古代ローマの英雄スキピオ・アフリカヌスにさえ匹敵するレベルかも知れない。
クロムウェルはスコットランド反乱軍同盟を結んで戦ったマーストン・ムーアの戦いで国王軍を蹴散らすと勇名を上げ、ニューモデルアーミイと呼ばれる議会軍を再編成し、その副官に就任した。
1645年、ネズビーの戦いにおいて決定的な勝利を挙げると国王チャールズ一世はスコットランドに亡命。しかしスコットランドも既に議会派に味方しており、国王の身柄は議会派の監視下に送られることになった。
清教徒革命(ピューリタン革命)
ネズビーの戦いで勝利をした後、議会はいくつかの派閥に分裂した。国王との融和的な政策を目指す長老派、王権の復帰を臨む王党派、クロムウェル率いる独立派などに分かれ、王党派は国王と結んでイングランドの覇権を握ろうとするもクロムウェルはそれらを武力によって征伐、イングランド内戦と呼ばれる議会派同士の戦いで主導権を握った。
さらに議会内においてはプライド大佐に命じて議会を占拠し、後にプライドのパージと呼ばれる追放劇を演出、長老派などの議員を追放し、独立派のみで議会の運営を断行した(歴史ではこの議会を残部議会あるいはランプ議会と呼ぶ)。
クロムウェル率いるランプ議会はイングランド王国の廃止及びイングランド共和国の樹立を宣言、ステュワート朝の国王チャールズ1世を処刑してしまう。
国王の処刑は長いヨーロッパの歴史の中でも前代未聞の出来事であった。古代ローマにおいては親衛隊などによる暗殺は多数あったが、それでも大っぴらに処刑されるようなことはなく、クロムウェルがここまでの凶行になぜ及んだかはいまだに議論が尽きない部分でもある。
アイルランド、スコットランド、オランダとの戦い
イギリスは現在コモンウェルスと言って、イングランドとスコットランド、ウェールズ、北アイルランドの連合王国である(ユナイテッドキングダム)。
この時期のイギリスもそうであるのだが、クロムウェルはスコットランドを軽視し独断で国王の処刑を断行した。国王家であるステュワート家は元々はスコットランドの王家であり、勝手な国王の処刑は当然のようにスコットランドを刺激した。
スコットランドはアイルランドと共にイングランドへの侵攻を計画する。
しかしクロムウェルはこの動きを読んでいたのか、アイルランドに出兵すると瞬く間にダブリンに上陸、各拠点を制圧すると歴史に残るような陰惨なやり方でアイルランド人を虐殺しまくった。
このことは両国の間に遺恨を遺し、2019年現在でも解消されていないレベルである。
アイルランドを制圧すると迅速にスコットランドとの戦いに臨み、ダンバーの戦い、ウスターの戦いと連勝してしまう。
さらにクロムウェル自身の発案ではないがオランダの航海を制限する「航海法」が成立するとオランダとの間にも戦争が起こり、英蘭戦争が勃発した。
護国卿就任(レジサイド)
「イギリスの歴史はユリウス・カエサルがブリテン島に足を踏み入れた時に始まる」
というのは後の英国首相ウィストン・チャーチルの言葉だが、イギリスの政治制度はローマに大いに影響を受けている。
クロムウェルはあくまで平民であった。そのためローマ式の護民官制度を復活させ、護国卿(ロードオブプロテクト)と名を変え自らそれに就任した。
ローマの護民官制度は文字通り元々は平民を守るためのものであったが、オクタヴィアヌスこと初代皇帝アウグストゥスの手によって独裁に利用された節がある。
クロムウェルもアウグストゥスに倣って建て前は民衆を守るとしながらも実際には独裁を行った。
クロムウェルはこれまた、恐らくはユリウス・カエサルを真似たのであろう、自らを終身護国卿とし、権力の座に居座ることを堂々と宣言した。
ただ、クロムウェルを王にしようという動きにはこれを固辞しており、クロムウェルが本当に何を目指していたのかはよくわからないままである。ナポレオンなどは権力欲の権化ともいえ自ら戴冠式を行ってまで皇帝に就任したが、クロムウェルにはそのような野望はなかったのかも知れない。
とはいえクロムウェルの執務室などは王政時代同様豪華で、その生活ぶりはまるで王侯のようだったという。
クロムウェルの死
オランダとの講和、スウェーデンやデンマーク、ポルトガルとの国交回復、スペインへの宣戦布告、ジャマイカの占領などめまぐるしく働く中で、クロムウェルは突然死んだ。
死の前年にはユダヤ人追放令を解除し、エドワード一世以来350年ぶりにユダヤ人はブリテン島の土を踏むことになり、そしてそのことがイギリスの歴史を大きく変えることになる。
護国卿の地位は息子のリチャードに引き継がれたが、すぐにこれを辞任。イギリスは王政復古への道を歩むことになる。
クロムウェルの死にによって、清教徒革命、あるいは三王国戦争と呼ばれた政変は終わりを迎える。
王政が復古した後、クロムウェルの遺体はウエストミンスター寺院から掘り起こされ、すでに死んでいたにも関わらず絞首刑となり斬首に処され、その首は20年以上もウエストミンスター寺院に飾られ、最終的には母校ケンブリッジ大学で眠っているという。
享年59歳。
個人的なクロムウェルへの評価
クロムウェルほど評価の難しい人物もいない。
歴史には、明確な名君、明確に優秀な将軍、あるいは明確な無能、明確な暗君や暴君が存在している。
しかし中には名君でありながら暴君であるというような人物がいる。例えば秦の始皇帝などだ。
まずクロムウェルは世界史上でも稀に見る優秀な軍事上の指揮官である。国王軍、長老派、王党派、スコットランド軍、アイルランド軍、全てを圧倒的な勢いで蹴散らしている。
では国家元首として優秀であったか。
今日の民主政的観点から言うと、独裁制を目指したという点は大いにマイナスであろう。
清教徒革命はそもそも国王が議会を遵守しないことから起きた。であるにも関わらずクロムウェルもまた議会を解散させ、独裁政治を行った。クロムウェルの武力に敵う者はなく、実質的には絶対王政となにも変わらなかったと言ってよいだろう。
そして武力を伴う革命を行い、そして国王を処刑した点は今日的観点から言っても後の世のどの時代から見てもマイナスの評価しか与えられない。
これではまるで共産主義革命である。
イギリスは西側の代表として共産主義革命を非難したが、これでは非難する資格なしと言われても仕方がないであろう。
もっともイギリスはクロムウェルの政体を維持しなかったのでその点は救いと言える。1688年に起きた事件はまさにそういった意味でも「名誉革命」であったと言える。
そしてクロムウェル最大のマイナスはアイルランドでの虐殺であろう。
これはある意味プロテスタントが行ったカトリックへの虐殺という面もあるが、個人的には宗教上の理由による虐殺ほど最低なものはないと思っているので、この一点だけでもクロムウェルを評価したくはない。
キリスト教徒というのは不思議なもので、異教徒に対してよりも違う宗派に対して憎悪を抱く者らしい。異教徒はまだ目覚めていない人なのでこれから目覚める人でもあるのだが、宗派の違いは悪魔の誘惑に負けたものであるらしいのだ。
クロムウェルの評価は専門家の間でも大きく分かれる。ロックはクロムウェルによる国王処刑を「貪欲な暴徒によって起きた不名誉な事件」としている。
ある者はクロムウェルをイギリス有数の英雄であるとしている。
個人的な意見であるが、英雄とは世の中に光を与える人物である。
しかるにクロムウェルが与えたのは虐殺と独裁であり、英雄とは程遠いと思われる。
ただ、クロムウェルがイギリスの、そして世界の歴史に与えた影響は大きい。特にユダヤ人追放令を廃止したことでロスチャイルドをはじめとしたユダヤ資本が政治に大きく関わることになり、大英帝国の発展を大いに促したと言える。
どのように評価したとしても、クロムウェルが後の世に大きな影響を与えたのは間違いないだろう。
イギリス史上最強の指揮官にして最大のトリックスター、それが個人的なクロムウェルへの評価である。