オスマン1世と知られざるオスマン帝国建国史について語るぜ!

先日六本木で行われた「トルコ至宝展」に行ってきた。

オスマン帝国の至宝が展示されていて、その繁栄ぶりがよくわかるよく催し物だった。

煌びやかな王冠には当然として水筒にまでダイヤだのエメラルドだのの宝石類がちりばめられていて、全盛期宮殿には料理人だけで1200人もいたという。

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至宝展ではドイツやフランス、イギリスに日本などからも送られた贈り物が展示されていて、まさに世界中の富が溢れていた様が見られ、残念ながら写真撮影が禁止だったため写真はないのだが、金が余って余ってしかたなかったんだろうなぁという感想さえ持った。

後代にはウィーンを包囲し、料理はイタリア料理やフランス料理の基礎となり、モーツァルトやベートーベンに「トルコ行進曲」を作らせるにいたったオスマン帝国だが、意外なほどその建国については知られていない。

そこで今回はオスマン帝国初代皇帝オスマン1世とオスマンの建国史を見てみようと思う。

 遊牧民族トルコ

トルコ人と聞くと、イスラム教のイメージがあると思う。

モンゴル人と聞くと、遊牧民族のイメージがあると思う。

意外に思う人が多いだろうが、トルコ民族とモンゴル民族は出自を同一にすると考えられていて、元々は遊牧民族で、しかも言語や遺伝子的には我々日本人に近い。

遊牧民族はユーラーシア大陸を西から東まで移動していたのだから驚くには値しないが、トルコ人と日本人が近いというのも意外な気がする。

他にもハンガリー人やフィンランド人なんかも我々に近い。

遥か昔、紀元4世紀頃にゲルマン人を圧迫した民族フン族もモンゴル系であったし、その辺りは驚くべきことでもないのかも知れない。

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トルコ民族はイスラム勢力のもと、当初は傭兵として聖戦であるジ・ハードに参加していたが、やがてイスラムに帰依し、11世紀にはセルジューク朝トルコを建国し、王と翻訳されることの多いスルタンの位をイスラムの最高指導者であるカリフから賜ることになる。

セルジューク朝はトルコのアナトリアのあたりを支配領域とし、ビザンツ帝国などとも戦ったが、チンギス・ハーンの子孫たちの侵攻を受けて壊滅、アナトリアは群雄割拠の状態となった。

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その中から頭角を現したのがオスマン1世だった訳である。

オスマン帝国建国史

実はオスマン帝国がどのようにできたかは誰も知らない。

以下のような伝承は残っている。

「オスマンの父はモンゴル軍の強襲を受けたセルジューク朝を助け、共にキリスト教の軍団と戦った。父亡きあとはオスマンが後を継ぎ、セルジューク朝が断絶すると1299年(イスラム暦699年)、オスマンがその地位を引き継いだ(実際にはフトバの中で自らの名を詠ませたと記載)」

この話は嘘であろうということで研究者の見解は一致している。

なにせセルジューク朝の断絶は1308年のことで、その地位をオスマンが引き継いだことも考えにくい。

イスラム暦699年という新たな世紀が始まることとセルジューク朝から中国で言う禅譲のようなことがあったとする創作であろうと思われる。

面白いもので、紀元前1世紀のローマなどはその記録がはっきりしているため実に多くのことが分かるのに、14世紀のオスマン帝国創業史ははっきりとはわからないのである。

同様のことはモンゴルにも言え、共に文字で歴史を遺すということをしなかったためであろう。

オスマン帝国初期の記録はビザンツ帝国側の記録で読み取れる。ちょうど日本の古代史の情報が中国の歴史書に記載されているように。

それによれば、1302年、ビザンツ帝国軍がオスマン帝国軍に敗れたことが記載されている。

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オスマン一世は信仰の戦士と訳されるガーズィーを率いていたとされ、その中にはイスラム教徒だけでなくキリスト教徒も混じっていたという。

アナトリアは元々ローマ帝国の影響の強い地で、多数のキリスト教徒が住んでいた。オスマン一世はこの勢力を取り込んだともいわれていて、事実オスマン帝国はイスラム国家だが信教の自由が認められていて、キリスト教徒やユダヤ教徒は啓典の民として優遇さえされていた。

これを言うとキリスト教徒やユダヤ教徒は怒るだろうが、3つの宗教はともにYHVHを信奉する宗教で、いわば3兄弟ともいえる。

キリスト教徒はキリストを追い詰めたユダヤ教徒を恨み、ユダヤ教徒は他2つの宗教を認めず、末の弟であるイスラム教徒は皆仲良くしたいと思っている。

話がそれるが、一部のイスラム教徒(ムスリム)がテロなどを行っているためイスラム=過激なイメージがあるが、あれはシーア派と呼ばれるごく少数で、9割を占めるスンニ派ムスリムは寛容で穏健なのだ。

オスマン一世はスンニ派を信奉していたと考えられ、ある意味では野武士みたいなものだった。

ビザンツ帝国内の諸都市にちょっかいを出しては略奪(アクン)を行い、生計を立てていたようだ。確かにこの建国史は中々広めにくい。

ローマ帝国なんて女神ヴィーナスや軍神マルスの血を引いていたり、日本もアマテラスノオオミカミの末裔だったりするもんな。オスマン帝国だとそのような話にするのは立場上難しいし、イロイロボカスしかなかったのだろう。

オスマン一世の部下の中でも特に有名なのがキョセ・ミハイルという人物で、この人物はキリスト教徒であったらしい。この人物を始め幾人かがバルカン半島に進出し、アクンを行い、やがてその地の豪族になっていく。このことが後にオスマン帝国を地方分権的な国家に成長させたという。

オスマン一世自体の逸話には以下のようなものがある。

「ある日オスマンは聖人として名高いエデ・バリという人物の館に客人として招かれた。そこオスマンは夢を見る。エデ・バリの胸から月が生まれ、その月がオスマンの胸に入る。そこから木が生え、山ができ、豊かな水をたたえるようになった。オスマンがそのことをエデ・バリに話すと彼はさっそく娘マル・ハトゥンをオスマンに娶らせた。」

エデ・バリはその夢を両者が1つになることで世界を支配できると考えたらしい。

なおオスマンの跡を継いだ息子のオルハンの母親はオメル・ベイという名で、どのみちエデ・バリの解釈は成就しなかったようだ。

実際にエデ・バリの娘とオスマンが結婚したのかどうかもわからない。オスマン帝国には正妻という概念すら乏しく、スレイマン大帝の時にロクセラーナが初めて結婚のような契約を交わしたと言われており、オスマン帝国に限らずイスラム国家は一夫多妻制である。

個人的なオスマン一世の評価

色々な国がそうであるように、建国者の伝承は神格化されやすい。

世界的に見ても歴史をしっかり残そうとしたのはローマと中国ぐらいで、ローマの跡を継いだと言っても良いヨーロッパ諸国や中国の文化の影響をモロに受けた日本などは例外的にかなり詳しく歴史が残っているだけで、トルコを始め中央アジアの諸国家、特に遊牧民族の歴史はあまり残っていない。

オスマン1世に関しては伝承こそ残っているもの、その伝承の大半は恐らく創作で、はっきりとしたことは実はわかっていない。

ただ間違いないのは、オスマン一世がアナトリアに散らばっていた遊牧民族とキリスト教勢力であるアクンジュをまとめあげ、空前の繁栄を享受することになるオスマン帝国の基礎を築いたということであろう。

野盗のような荒くれものをまとめ上げて、帝国の基礎を作ったという意味では中国の劉邦や劉備に近い存在であると言えるかも知れない。

オスマン一世は1326年に69歳で死去し、その後はオルハンが継いだ。

彼の築いた帝国は、やがて2000年以上も続いたと言ってよい東のローマ帝国を滅ぼし、強国スペインを打ち破り、北アフリカや東ヨーロッパを支配下におさめることとなる。

伝説は、ここから始まったのだ。

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