僭主を表すギリシャ語は「tyrannos」は英語にすると「tyrant」、つまりは暴君になる訳だが、今回はそんな僭主の中でも最も有名なペイシストラトスのお話。
ペイシストラトスの元でアテネはさらに発展する
暴君の語源とたる僭主であったが、そのすべてが暴君だった訳ではないというのはちょっとややこしい。
ペイシストラトスの元でアテネは大いに発展することになる。
ペイシストラトスが僭主になったのが紀元前561年のことなので、ソロンの改革の約30年後ぐらいのことになる。
この頃のアテネはソロンの改革のおかげで軍備的にも経済的にも豊かになっていたことは想像に難くないが、それでも平民と貴族の間には確執があった。
ちなみにソロンの改革については次の記事を見てほしい。
ペイシストラトスは貴族ではあったけれども民衆よりの政治を行っており、彼の支持者層は主に平民であった。
ペイシストラトスのやった主なことは以下のようになる。
・亡命貴族の土地を没収して貧困層に分配した
・ラウレイオン銀山の開発を行った
・女神アテネの礼拝を推奨するなどアテネ市民の愛国心を高揚させた
僭主のイメージと実際にやったこの間には結構な開きがあるけれども、はとこでもあるソロンとは対立をしたようである。
両者ともに貴族ではあったが、ソロンはあくまでに現代的な民主制を愛したのに対しペイシストラトスは半ば強引に僭主になったところがあり、「民主的」とは言えない部分もあったからであろう。
ペイシストラトスにはこん棒隊と言われる50人の親衛隊がおり、武力をもってアテネの政権を握った面がある。
これは当時のアテネの人々は大変不評で、その後2度も追放されている。
彼の独裁が本格的に開始されたのは紀元前545年の頃だと言われていて、それ以降約20年にわたり僭主として独裁制を敷いた。
「独裁制」の是非は難しい。
近世の絶対君主制も独裁であるし中華帝国の歴代王朝も独裁制である。日本でも明治維新が始まるまで例外なく独裁制であった。人類の歴史において行政権をもった者が独裁制で政治を行うのが常と言え、多数派だと言えるであろう。
ペイシストラトスが問題になるのはアテネという民主制の牙城で独裁政治を行った点であろう。
彼が行った政治自体は非常に民主的であったと言える。
特に後世の哲人であるアリストテレスはペイシストラトスに対して大変高い評価をつけており、「平素彼は万事法に従って治め、決して自己の利益を計ることがなかった」「ペイシストラトスの時代こそアテネの全盛期であった」としているほどである。
彼は貧しいものがあれば積極的に貸付を行い、農業を振興させたという。
*当時の社会では貨幣は流通せず借財は麦などによって行われていたと考えられる。
外征政策もかなりの結果が出ており、この時期にデロスやサラミスと言った後の歴史の舞台になる土地獲得に成功しており、事実上スパルタと共にギリシャ世界の盟主となっていったのである。
なお彼が礼拝を推奨した女神アテナの記事はこちら。
ペイシストラトスの息子は暴君化した
なぜ「僭主」がのちのタイラントになるのかというと、ペイシストラトスの息子であるヒッピアスが暴君化したからである。
ヒッピアスはどうしようもなかった。アテネの人は宿敵スパルタと手を組みヒッピアスを追放することにしたという。
その後彼はあろうことかギリシャ世界最大の敵であるアケメネス朝ペルシャに降りペルシャ戦争の際には水先案内人になったという。
祖国を平然と敵に売り渡したあげくに失敗する。歴史上もっとも救えない人物の1人だと言えるだろう。
ペイシストラトスの個人的な評価
政治家として考えればペイシストラトスは世界史上第1級の人物である。
貴族の生まれでありながら労働者階級を優遇し、ソロンが作り上げたアテネの基礎を完成させた人物だと言えるだろう。
特にラウレイオン銀山の開発はその後のアテネの財政を大いに潤した。
世界史的に見れば17世紀ぐらいまでの国際通貨は銀で、銀の保有量はその国の財政状況を表していた。
銀が増えれば貿易で大いに有利になる。事実アテネはこのペイシストラトスの時代から商工業が大いに発展して行く。考古学的な面から見てもこの頃からコリントやロードス島産の陶器に代わってアッティカ産(アテネ産)の陶器の流通が支配的になっていった。
ギリシャ中の技術や富がアテネに集まるようになり、後世まで名を遺すアテネが完成したのである。
彼の汚点はやはり息子達の不出来であっただろう。
もし息子たちが名君であったなら、アテネは王制への道を歩んでいたかも知れないのでその辺りは複雑な部分ではあるが。