世界史の教科書に出てくるポエニ戦争は紀元前に起きたローマとカルタゴの間で起きた戦争である。
ほとんどの人がカルタゴと聞いてもピンとこないと思う。
カルタゴは今のチュニジアのあたりにあった国家の名前で、ペロポネソス戦争以降弱体化したギリシャに代わり地中海の覇権を握っていた。
その版図は紀元前3世紀に存在したどの国家よりも幅広く、当時最も富んでいた国家だった。
フェニキア人が建てた国家カルタゴ
ポエニ戦争以前の地中海の様子
英語もフランス語もイタリア語もドイツ語もスペイン語も皆アルファベットを使っている。当たり前のように使っている。
アルファベットを開発したのはアメリカ人だったか?それともフランス人?あるいはギリシャ人やローマ人か?
アルファベットはフェニキア人が作り出したと言われている。
フェニキア人は古代の時代より海上貿易に長けていた民族だ。その際積荷が分からなくならないように荷物に印をつけていたと言われていて、その印が後のアルファベットになったという話だ。
フェニキア人はまた農耕民族でもあった。北アフリカの土地はこの時代はそこまで砂漠化が進んではいなかったようで、カルタゴの地は豊穣の土地であり、農産物も多く収穫できたそうだ。
その結果として国は富み、領土は拡大され、北アフリカの地中海沿岸部やスペイン南部、サンルデーニャ島やコルシカ島、シチリア島の西部のほとんどをその領土としていた。
豊かな海産物と農作物と交易による利益を一挙に手中に収めていたわけだ。
フェニキア人と敵対関係にあったのはギリシャの植民都市群だった。
ギリシャ人は小規模なポリスを沢山作る傾向にあった。アテネのラウレイオン銀山の開発に代表されるように銀などが豊富で、カルタゴとは地中海貿易の面で競合することもあった。
特にシチリアにおけるギリシャ人の存在はカルタゴにとっては邪魔であった。
シチリアの西側を制圧しているカルタゴであったが、東側はギリシャ人植民都市シラクサが支配していたのである。
イタリア半島を統一したローマ
ローマは建国から500年ぐらいをかけてイタリア半島を統一するに至った。
一時期はガリア人(ケルト人)の滅ぼされかかり、サムニウム人との戦闘には苦労し、ピュロス戦争を経てなんとか南部イタリアもその手中に収めることに成功する。
俗にいうイタリア統一戦争である。
ポエニ戦争は地中海の覇権を握るカルタゴとイタリアを統一したばかりのローマの間に起きた戦争である。
きっかけはシチリア、舞台もシチリア
きっかけはシチリア島にあるギリシャ人都市シラクサがシチリア北部メッシーナに圧力をかけたことに始まる。
当時ローマはメッシーナの眼前にある都市レッジョと同盟関係にあった。
メッシーナとは同盟関係にはなかったが、メッシーナの人々がシラクサの圧力からの保護をローマに求めたのである。
ローマはメッシーナの保護を決めた。理由はカルタゴ勢力の伸長を防ぐためであったと言われている。仮にメッシーナをカルタゴが手にすればイタリア南部の制海権はカルタゴに移る。
紀元前246年元老院はメッシーナ保護のために執政官クラウディウス・アッピウスを派遣する。
有名なアッピア街道を整備したクラウディウス・アッピウスの子孫にあたるこの名門出身の執政官がレッジョに到着した時には既にカルタゴの艦隊はメッシーナに到着していた。
クラウディウスはカルタゴ艦隊を横目にメッシーナへの渡航を開始する。そしてメッシーナとの間に同盟関係を結んだのだが、これがシラクサとカルタゴを同時に刺激した。
シラクサとカルタゴ、この2陣営が手を組みローマへの宣戦布告を行ったのである。
対してローマは迅速に、電光石火の如くシラクサに攻め入った。シラクサは一瞬にして撃破された。そしてローマはシチリア島西部にいるカルタゴ軍と衝突することになる。
ローマはカルタゴの軍隊も一瞬にして撃破するのだが、ここで冬休みに入る。
ローマでは冬は軍事行動をしないのが慣例だったようだ。
そしてこの間に執政官はクラウディウスからマニウス・ヴァレリアヌスとオタチウス・クラッススの2人に交代となる。
ここで少し面白いのはオタチウス・クラッススがローマの名門貴族ではなく少し前まで敵対していたサムニウム族の出身であったことだ。ローマの強みは人種差別をしないところにある。優秀な人材なら民族の出自などは問わないのだ。
冬が明けると2人の執政官はローマのほぼ全力を以てシラクサに攻め入った。シラクサの僭主ヒエロンは戦って国力を消耗させる選択をしなかった。
シラクサはローマに講和をもちかけ、両者は同盟関係に至る。
ローマの目的は達せられた。メッシーナやシラクサは同盟国となり、イタリア半島南部の制海権はローマのものとなった。ローマは引き上げの準備を始めた。
しかしカルタゴはそうではなかった。新たにシチリアに基盤を持ったローマをそのまま捨ておくカルタゴではない。カルタゴは実に4万もの兵をシチリア島のアグリケントゥリウム(現在のアグリジェント)に派遣してきたのである。
画像引用元:http://italying.zening.info/map/Sicily-Island-Map.htm
ローマとカルタゴはここにきて激突した。海外では有名なアグリゲントゥムの戦いである。
結果的にはローマが勝った。カルタゴの傭兵達が逃げ出したのである。
ローマは市民権を得るとともに兵役の義務をも負う。つまり軍隊は自前である。
一方カルタゴは自国民は戦わず傭兵が中心である。これがポエニ戦争の勝敗を分けたと言っても良い。
ローマはアグリジェントにて大規模な略奪行為を働くことになる。住民は端から奴隷にされ売りさばかれた。
陸上戦の限界と海上戦
ローマはこの勢いに乗ってカルタゴを攻めるのだが、うまくはいかなかった。カルタゴ側は地中海の制海権を握っており、海上から物資や兵力が補給され続けるためである。
ローマ側は陸上戦の限界を悟り、カルタゴの補給を絶つべく海上戦に乗り出すことにした。
しかしローマ側には大きな問題があったのだ。
陸上戦では無類の強さを誇るローマだったが、海上戦の経験はない。
当時カルタゴとローマにどれくらいの海軍力の差があったかは正確にはわかっていない。
一説にはローマ軍は最高でも三段層軍船までしか作れなかったという。
三段層軍船
対してカルタゴ側は五段層軍船まで作れたという。
簡単に言えば海軍力が全然違ったのである。ローマは完膚なきまでに叩きのめされた(リーパリ諸島の海戦)。
この時の指揮官はグネウス・コルネリウス・スキピオ、後に伝説となるスキピオ・アフリカヌスの祖父である。
ローマ側もただ負けた訳ではない。どうすれば勝てるのかを考えた結果新兵器「カラス(コルウス)」を開発したのである。
これによって相手側の船への侵入が可能となる。作戦は大成功したようで、ローマ軍はカルタゴを大いに破ることに成功したのであった。
ミレ沖の戦い、エクノモスの戦いと立て続けに海上戦においてローマは勝利を飾った。
そのままローマ側は再び今度はアフリカ大陸にあるカルタゴ領に攻め入り、大いにカルタゴ軍を破ることになる。
一方的なローマ優勢が見られるが、カルタゴ側も負けっぱなしで終わってはいない。かつて軍事大国としてギリシャ世界の覇者となったスパルタ出身のクサンティッポを将軍とした傭兵軍団を組織し、ローマ側を大いに打ち負かすことに成功する(チュニスの戦い)。
当時のローマ執政官だったレグルスは捕えられ捕虜となる。
更には地中海史上最悪の海難事故と言われる海難事故をローマ軍は体験する。カラスは船の頭が重くなりすぎるという欠点があった。そのため船は転覆しやすかったのだ。ローマの230隻の船は海難事故によって80隻となり、死者は6万人に上ったという。
同じ年の冬、捕虜であったレグルスがカルタゴ側からの講和の使者としてローマに来た。カルタゴ側の講和条件はシチリア島全土をカルタゴ領とすること。レグルスは誇り高い男であった。レグルスは元老院においてカルタゴとの徹底抗戦を主張し、元老院も抗戦を決意する。
レグルスはそのままカルタゴへと戻り、処刑されてしまう。
彼の最期はくぎを打ちこまれた樽の中に閉じ込められ象にそれを蹴らせるというものであったらしい。
家族に引き留められるレギルスの画
カルタゴの敗北
カルタゴはすでに勝った気でいた。勝利に貢献したクサンティッポも早々に解雇してしまった。
一方のローマは違った。船を急造し兵力を回復させると、敗戦の屈辱を払しょく戦と必死なコルネリウス・スキピオを執政官にシチリアの重要拠点であるパノルムス(現パレルモ)を攻めた。激烈な死闘の上ローマ側は勝利する。
これによってカルタゴ側は重要拠点を失い、シチリア島にはセリヌンテ、マルサラ、トラパニの3都市を残すだけとなってしまった。おごれるものもなんとやらである。
ただしローマはここで二度目の海難事故を起こしてしまう。今回は150隻もの船を失ってしまった。
このことによって意気消沈するローマに対し今度はカルタゴが攻勢に出る。カルタゴは象兵部隊を組織するとローマを大いに蹴散らす。しかしその後は象の暴走を画策したローマ執政官メテルスの策にはまり象兵部隊は巡らせた堀へと真っ逆さまになってしまう。
シチリア戦線は泥沼化し、激しい戦闘が続いた。
ローマ側はドレパナ沖の海戦で大敗すると勢いを失った。この頃にはローマ全体で人口が減少することになったというからローマ側の被害の大きさがわかる。
さらにカルタゴ側は名将ハミルカル・バルカを戦線に投入することになる。
ハミルカルは天才的な将軍だったが、当時のカルタゴはハンノンという非戦派が政権を握るようになっていたため十分な兵力を持たせてはもらえなかった。長く続く戦争に嫌気がさしたのだろう。
ハミルカルは長期戦をして講和に持ち込む作戦を練った。ハミルカル派大規模な会戦は行わず防戦に終始し、ついにローマ軍には一度も負けなかった。
なにせ途中でローマ軍はハミルカルと戦うのをやめたのである。
ハミルカルは陸上に陣を張っていたが、ローマは海上からマルサラを攻めて陥落させることに成功した。ハミルカルの持つ兵力は少なく、都市を攻略できるほどではなかった。
カルタゴはマルサラを取り戻すべくハンノン自らが指揮をとりおよそ250隻の大艦隊を派遣したがローマ軍はこの戦いに勝利した(アエガテス諸島沖の戦い)。
カルタゴは、負けたのである。
第一次ポエニ戦争後
戦後の講和条約においてカルタゴ側の代表はハミルカル、ローマ側の代表は執政官カトゥルス。講和の内容は以下のとおりである。
・カルタゴはシチリア内の領有権は永久放棄
・カルタゴはシラクサを含めたローマ友好国には攻め入らない
・両国とも捕虜は無条件解放
・カルタゴはローマに賠償金を支払う
・カルタゴの自治と独立をローマは保証する
カルタゴの全面的敗北であった。
しかし、ここでカルタゴの息の根を止めなかったことが、後にローマ側を苦しめることになることを、この頃のローマはまだ知らなかったのである。
第一次ポエニ戦争について思うこと
会戦当初は圧倒的にカルタゴ有利であった。兵力も、経済力も、技術も。
勝敗を決したのは両者の政体であったかも知れない。
ローマはポエニ戦争中常に首尾一貫しており統率が取れていた。国民は一体となりカルタゴに向かっていた。
一方のカルタゴはハンノン率いる内政派とハミルカル率いる主戦派が一致団結できていなかった。結果としてお互いに足をひっぱることになり、アエガテス諸島沖の戦いでカルタゴ側の敗北は決定的となってしまった。
もしもハミルカルが十分な兵力を率いることができたなら、ポエニ戦争の勝者はカルタゴになり歴史は変わっていたかもしれない。
しかし思う。
当時のカルタゴはまるで日本の大企業のようであると。お互いが足を引っ張り合い新しい何かを生み出すことができない日本企業によく似ている。