ローマ最大の反乱!スパルタカスの反乱(第三次奴隷戦争)とスパルタカスの人生について

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古代ローマを舞台にした映画の中でも特に傑作ともいえるのがスタンリー・キューブリックが監督しカーク・ダグラスが主演した「スパルタカス」だと思う。

ローマという括りを抜きにしても世界映画史上でも100位以内には絶対に入る名作で、ローレンス・オリヴィエやトニー・カーティスなど当代きっての名優が出ている点はもちろんだが、素材としたスパルタカスの乱のドラマティックさも名作になりえた理由であろうと思う。

今回はそんなスパルタカスの乱を通じてスパルタカスという人物を見て行きたいと思う。

 トラキア生まれと言うこと以外は生まれのことはよくわかっていない

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スパルタカスについてはトラキアで生まれたということ以外はあまりよく知られていない。

反乱を起こす前は剣闘士奴隷であったことから、元々はトラキアの兵士であったも人物が捕えられ奴隷として売られたと見るのが自然であろう。

剣闘士は名声や富などが得られるため自ら望んでなる者も多かったが、ローマとの闘いに敗れて捕虜になった者が剣闘士になる例が非常に多かったので傭兵などの立場でローマと戦った可能性が高い。

出自に関しては古来より様々な学者が様々な論説を展開しており、王族の系譜ではないかという意見さえあるが、はっきりとしたことはわかっていない。ただ、後の記すように訓練されたローマの正規兵さえも打ち破っていることからかなり高い指揮能力をもっており、ただの傭兵や一兵卒であったとも思えないので、将官クラスだったのではないかと個人的には思う。

スパルタカスの反乱

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紀元前73年、スパルタカスと共に数十人の剣闘士が剣闘士養成所を逃亡し、武器庫を奪ってヴェスビオス火山に立てこもるという事件が発生した。

スパルタクスのいたバティアトゥス養成所は200人ほどがすし詰め状態で過ごしていたようで、劣悪な環境で剣闘士たちは過ごしていたようだ。

事件が近隣に知れ渡るや近隣の奴隷や没落農民などがヴェスビオス火山に駆け付けるようになり、軍隊を組織できるほどになったという。

奴隷というと足枷をされながら鞭で打たれているようなイメージがあるが、ローマは基本的に奴隷社会で、ローマ市民は多数の奴隷を使役しているのが普通だった。ひげをそるのも奴隷なら料理をするのも奴隷だし、子供たちと一緒に教育を受けたりもするので蓄財し解放奴隷となる者も多かった。

それでもスパルタカスの反乱の人数を見るにつけ不満を持つものが多数派であったのだろうとは思う。

また、第二次ポエニ戦争以降シチリアから安価で質の良い小麦が大量に輸入されるようになり、中小農民は没落するようになり、所謂無産階級が多くなっていた。

そのような時代背景もありヴェスビオス火山にいるスパルタカスの許へ多くの人間がかけつけ、反乱は大規模化したと言えるだろう。

スパルタカスはそのような人物をよくまとめていたという。

この手の反乱軍は略奪などに手を染めることがほとんどで無秩序で規律もないのが普通であったが、スパルタカスはそこに秩序をもたらしよく訓練が施されていたという。

このような状態は当然看過される訳もなく、元老院はプラエトル(法務官クラス、ローマで2番目の階級)であったグラベルを差し向けるも壊滅、次の同クラスであったヴァリニウスを派遣するもスパルタカスの前に手も足も出なかった。

当時ローマは世界最強国家と言え、指揮官は違えどギリシャやアフリカ、ガリアやスペインなどの勢力に完封に近い形で勝利している。それを武装などが足りていない状態で打ち破っているという事実がスパルタカスの指揮官としての能力の高さを指示していると言えるだろう。

見かねた元老院はローマ最高戦略である2人のコンスル(執政官)を差し向けるも2軍の連携を崩し各個撃破することに成功。この際スパルタクス側はスパルタカスの共同指揮官とでもいうべきクリクススを失っており、その哀悼の意味を込めてローマ軍の捕虜たちに剣闘士試合をさせたことは有名な逸話として残っている。

人にしたことはいつか自分に返ってくるのだという最たる例かも知れない。

3頭が1人クラッスス登場

映画スパルタカスの敵役は当然の如くクラッスス演じるローレンス・オリヴィエになる訳だが、元老院は執政官2人から軍事権を取り上げ、後に3頭政治をカエサルやポンペイウスと共に行うことになるクラッススをスパルタカスの反乱鎮圧に差し向けた。

クラッススはカエサルやポンペイウスと比べれば軍事的な才能はないに等しかったが、それでもやはり歴史に名を残すだけのことはある。勝ったり負けたりを繰り返しながらスパルタカスの軍団を徐々に追い詰めていく。

スパルタカスの乱に関しては歴史家によって記述の異なる部分が多く、いったい何を目的とした反乱だったのかどうかさえ良くわかっていない部分が多い。

特にスパルタカス軍の侵攻ルートは合理性を欠き、南に向かったり北に向かったりしている。

↓紀元前73年から紀元前72年までの行動

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↓紀元前72年の進路。

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南に行ったかと思えば北に行き、ローマを目指したかと思えば再び南に行くという謎の行動をとっている。

一説にはポントス王ミトリダテスと手を組んでおり、船団が迎えに来るはずが来なかったというものと、海賊にお金を渡したが海賊が約束を反故にしたため北に向かいアルプス越えを目指したとする説など古来より様々な説があるが、やはり進軍ルートに関してはよくわからない。

クラッススとの戦いにおいても、クラッススが単独で撃破したとするものとスペインから帰ってきたポンペイウスが鎮圧したとする記録の両方があり、それもどちらが本当なのかわかっていない。

分かっているのはスパルタカスは敗れ、そして多くの者たちが十字架に張り付けられアッピア街道沿いに見せしめとして並べられたということである。

クラッススはこの件で名をあげ、後にローマの政治を牛耳っていく訳であるが、それはまた別のお話。

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反乱は鎮圧されたが、結局最期までスパルタカスの遺体は見つからなかったという。

キューブリックのスパルタカスではローマ兵の「一体誰がスパルタカスなんだ?」という質問に対し反乱に加わった者たちが「I'm Spartacus!」と言って次々と立ち上がっていくシーンがあるが、見ていて思わず泣いてしまった名シーンである。

スパルタカスの反乱について思うこと

ロックンロールは反抗を主張する音楽だと言えるが、スパルタカスは反抗の象徴として使われることが多い。共産主義宣言を出版したカール・マルクスはスパルタカスを「古代のプロレタリアートの真の代表者」と評しており、ドイツの急進的な共産主義勢力であるスパルタカス団の結成につながった。

キューブリック以外にも映画化している監督もいて、小説や映画などの題材にもなっている。

それは、スパルタカスが一切の略奪や強奪などを許さず、弱き者たちを率いて戦ったからであろう。精強で知られる正規のローマ軍を破った数少ない勢力の1つで、指揮官としては一流の能力の持ち主であったのだろう。

スパルタカスの反乱の鎮圧をもってローマでは大規模な奴隷による反乱はこれ以降起きなくなり、二度のシチリアでの奴隷反乱から続いた一連の奴隷反乱の1部として、現在では第三次奴隷戦争と言われることもある。

ローマでは長らく恐怖の対象としてハンニバルと並んで恐れられており、泣き止まない子供に「スパルタカスが来るよ」というと子供は泣き止んだという。

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勝てば官軍負ければ賊軍

スパルタカスの反乱をみるにつけ、この言葉を俺は思い出す。