第22代・第24代アメリカ大統領クロバー・クリーブランド

アメリカ大統領を二期連続で務めた人物は非常に多い。しかし二期連続でなく二期アメリカの大統領を務めたのはクロバー・グリーブランドただ1人である。

 大統領になる前のクリーブランド

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クリーブランドは1837年ニュージャージー州で長老派の牧師の子供として生まれた。父は源流をイギリスに持つ伝統的なアメリカ人で、母はドイツ系移民の血を引き、オハイオ州の地名クリーブランドの由来ともなったモーゼス・クリーブランドの一族であった。

一家はその後ニューヨーク州に移住するが10代の前半で父を失い、以後は裕福な伯父のもとで育つ。

成長したクリーブランドはニューヨークの法律事務所で働き、後に司法試験に合格、地方検事補、保安官などを歴任、次第に名声を高めていきニューヨーク州バッファローの市長となる。政治的には民主党に属し、1884年の大統領選に出馬。

共和党はクリーブランドの隠し子スキャンダルや徴兵逃れなどを指摘するがクリーブランドはそれらの疑惑を否定せずに認めた。

ユリシーズ・グラント以降、共和党の大統領が続いたが、共和党の歴代大統領は産業資本家と癒着し、その内情は汚職にまみれており、一方で労働者の労働運動を弾圧したため人々の支持を完全に失っていた。

この頃アメリカでは「マグワンプ」と呼ばれる運動が盛んになっており、汚職にまみれた共和党を批判し政治を「高貴なる行為」として認識する動きがアメリカ全土に広まっていた。さらには共和党から出馬したジェイムズ・ブレインに産業資本家との癒着が発覚し、さらに支持を失うことになる。

そういった流れの中でクリーブランドのスキャンダルなどはまるで問題にならず、民主党に所属したクリーブランドは第22代アメリカ大統領となった。

第22代アメリカ大統領

大統領としてのクリーブランドは伝統的なプロテスタントの倫理に基づき実に清廉であった。清教徒大統領と言っても良いかも知れない。そういった面が評価されて民主党から出馬し、支持を集め大統領になった訳だが、ある意味彼は清廉過ぎたかも知れない。

彼は議会から出る法案や政策に次々とヴェトー(拒否権)を発動させ、その数は400を超えたという。歴代大統領のヴェトー発動が合計で200回ほどであったことを考えるとこの数字が如何に異常かよく分かる。

クリーブランドは「聖域なき構造改革」に着手した人物であり、退役軍人への年金問題や鉄道敷設に関する一部の資本家の優遇、産業資本家に有利な関税などの問題に取り組んだ。

しかしこのことが反発を呼び、結局次の大統領選では共和党の候補ベンジャミン・ハリスに負けてしまう。

第24代アメリカ大統領

大統領を引退した後には再び弁護士に戻ったクリーブランドだが、第24代大統領を決める選挙には出馬した。

ベンジャミンハリス率いる共和党は再び産業資本家有利の政治を行い、マッキンリー保護関税法が成立し平均税率が49.5%という水準にまで引き上げられると反発が強くなり、資本家カーネギーの経営する鉄鋼工場でのストライキ運動において政府がカーネギーの味方につくと民衆の支持は一気にクリーブランドに傾き、見事二度目の当選を果たした。

クリーブランドは反産業資本家の方針を明確にしたが、農業問題や通貨問題、鉄道産業の不振などが重なり大規模な恐慌が到来、その治世の末期にはストライキなどが多発、結局不況を改善できないまま人気を終えた。

その後のクリーブランド

引退後のクリーブランドは好き勝手に生きた。学校で教鞭をとったり各地で公演をしたり、著作を出したり。しかしマッキンリー大統領がアメリカスペイン戦争を始めるとアメリカの帝国主義に反対しアメリカ反帝国主義連盟を結成するなど政治活動も行った。

1908年、クリーブランドは死んだ。71歳だった。