第26代アメリカ合衆国大統領セオドア・ルーズベルト

アメリカの300年に及ぶ歴史の中で、セオドア・ルーズベルとの人気は確実に5指に入るだろう。

事実ランキング好きなアメリカ人が行う歴代アメリカ大統領人気投票においてはセオドア・ルーズベルトは大体上位の常連である。

「テディベア」のもとにもなった一方「こん棒外交」を行った人物でもあり、伸長し続ける産業資本家と初めて真正面から向き合った第26代アメリカ合衆国大統領について見て行こう。

 大統領になるまでのセオドア・ルーズベルト

 セオドアルーズベルトは1858年にニューヨーク州のニューヨーク市で生まれた。

その祖先は遡ればオランダ系ユダヤ人に行きあたると言い、17世紀半ばにアメリカに移住、その際に姓がルーズベルトになったという。やがてこの家は大きな二つの家に分かれていき、片方はこのセオドア・ルーズベルトの、もう片方はフランクリン・ルーズベルトの家であった。少しややこしいのだがフランクリンルーズベルトの妻エレノアルーズベルトも元々ルーズベルト家の者で、こちらはセオドアルーズベルトの姪(弟の子供)にあたる。

セオドアの父は強烈なユニオリスト、すなわち北軍支持者であり、母の方は南部の支配階級の出身であったために南軍支持者であったという。

 ルーズベルトは後のイメージに反し小さい頃は非常に病弱で、特に持病の喘息には悩まされたという。そのような体質を克服するためにボクシングやアウトドアなどを積極的に行い、さらにルーズベルト自体は昆虫の研究などに熱心であったという。

やがてセオドアはハーバード大学を卒業しコロンビア大学のロースクールに入るが州議会議員に最年少で当選し議員となる。さらにこの期間に1812年の米英戦争に関する本を出版し名声を確かなものとする。

順調に思えたセオドアのキャリアであったが、1884年妻と母を同日に亡くすという悲劇に見舞われて数年を静かに過ごした。

しかし1886年に取期の大統領ベンジャミン・ハリスによってニューヨーク州の公務に呼び戻されるとニューヨーク市警察の腐敗を糾弾、1895年にはニューヨーク市の公安委員長となる。

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その後は海軍次官として海軍内の改革に取り組んでいたが米西戦争が始まるとセオドアはこれに従軍、陸軍の士官としてキューバでの戦闘に従事した。

米西戦争が終わるとセオドアはニューヨーク市の市長選に立候補し見事当選、その期間中にマッキンリー大統領の副大統領に任命される。

第26代アメリカ大統領

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1901年、マッキンリー大統領が暗殺されるとセオドア・ルーズベルトは繰り上がりで第26代アメリカ合衆国大統領となった。

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セオドアはその時まだ42歳、史上最年少アメリカ大統領の誕生であった。

若き大統領はこれまで聖域とも言って良い部分の改革に着手し、国内国外に向けて積極的な干渉姿勢を見せることになる。

VS産業資本家!シャーマン反トラスト法

南北戦争後の共和党は産業資本家とズブズブの関係を続けていた。リンカーン暗殺後のジョンソン大統領クリーブランド大統領を除いて共和党の大統領が続いており、それらの大統領は例外なく産業資本家に対し有利な政治を行ってきた。

しかしセオドアは大統領になると成立後形骸化していたシャーマン反トラスト法を大財閥である鉄道王モルガンに適応して全米を驚かせた。

それまでのアメリカの態度は市場は市場に任せる「レッセフェール」の原則を貫いていたため、あまり民間の経済に介入するのはよくないとされており、セオドア・ルーズベルトのこの政策は現在でも論議の対象となっている。

義理の甥のフランクリン・ルーズベルトのニューディール政策もそうであるが、経済に対する国家の介入は社会主義的であると現在でも非難されることがある。

実際アメリカの発展が産業資本家によるものである面も否めないためこの辺りは難しいところである。

セオドアの就任前の時代は「金ぴか時代」と呼ばれ、極度に拝金主義的な状態になっていたのも確かで、食品や薬品といった分野においても粗悪品が出回っており、セオドアはこれに対し薬事法、食品法などを制定し対抗、産業資本家の抑制に乗り出した。

こん棒外交

「Speak softly and carry a big stick」がセオドアの基本外交方針であった。日本語に訳すと穏やかに話しかけ、大きなこん棒を持ってくると言ったところであろうか。セオドアの外交方針は日本では「こん棒外交」という風に訳される。

このような姿勢が特に出たのがアメリカの裏庭とも呼べるカリブ海の国々に対してで、キューバの独立を認めるもののアメリカの事実上の保護国としたプラット条項やパナマ運河の建設などカリブ海をアメリカ帝国主義の足場とした。

さらに極東情勢にも乗り出し、日本とロシアの間で日露戦争が起こるとその講和を仲裁してポーツマス講和会議を開催、この功績によってノーベル平和賞を受賞している。

これはアメリカ人としては初のノーベル賞受賞であったが、他の平和賞受賞同様その受賞にはかなりの疑問がある。

なにせこの講和には日ロ両国共に不満が残っており、日本では日比谷焼き討ち事件が起こり、ロシアではこの10数年後に革命が起きてしまう。さらには日本もロシアも中国を分割統治しようとしていた矢先にセオドアの前任のマッキンリー時代に出された門戸開放宣言によって邪魔されたということもありアメリカと両国の関係を悪化させただけだったともいえる。

さらにセオドアはインディアンに対する絶滅政策を支持していたことも有名であり、排斥移民法の端緒を開くなどインディアンのみならず黄色人種への偏見はかなり強力なものであった。

その後のセオドア・ルーズベルト

大統領を引退したセオドアであったが、自分の後任となったウィリアム・タフトが自分の言いなりにならなかったことに腹を立てて二期目にあたる1912年の大統領選に自ら出馬した。両者共和党であったために票が割れてしまい、結果として民主党のウッドロウ・ウィルソンの当選が決まってしまう。

大統領選後は疲れたのかアマゾンへの大旅行に出かけ、そこで大好きなフィールドワークを存分に楽しんだようである。

一次大戦が始まると連合軍を支持、根っからの平和主義者であったウィルソンを攻撃し続け、アメリカの積極的対戦参加を主張した。

そして第一次世界大戦中の1919年1月、セオドア・ルーズベルトは死んだ。心臓発作であったという。

個人的なセオドア・ルーズベルトの評価

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 最もアメリカらしい大統領であると思う。

パワフルで、独断的で、行動的で、力に物を言わせる。

ラシュモア山にある有名な4人の大統領の像は、ジョージ・ワシントン、トーマス・ジェファーソン、セオドア・ルーズベルト、リンカーンの4人の偉大さを称えて作られたものである。

トーマス・ジェファーソンはほぼ唯一合衆国憲法に奴隷に関する記載を求めた人物であり、リンカーンは奴隷解放宣言を行った。ワシントンは多数の黒人奴隷を使役し、セオドアはインディアン絶滅を支持した。

セオドア・ルーズベルトは力強く存在感のある大統領であったが、やはりジェファーソンやリンカーンには及ぶべくもないであろう。

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それでもセオドア・ルーズベルトがアメリカ歴代5指に入る活躍をしたのもまた確かであると思う。この時代からアメリカは本格的にヨーロッパの列強に肩を並べ始めるのだ。