東ゴート族の長!大王と呼ばれたテオドリックについて

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476年に西ローマ帝国が消滅して以来、ローマはオドアケルの許で平和な時代を享受していた。

しかしそのことに業を煮やした東ローマ帝国は毒には毒を以て、つまりゲルマン人にはゲルマン人をぶつけることで問題の解決を図ろうとしたのである。

そのための白羽の矢が立ったのが東ゴート族の王テオドリックであった。

 東ゴート族の英雄テオドリック

テオドリックは10歳から18歳までを東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルで過ごした。

徳川家康が幼少期を今川家で過ごしたように、この頃はゲルマン族の王族の子弟がローマ帝国内で人質となることは珍しくなくなっていた。

テオドリックが東ゴート族の王になったのは484年のことだとみられており、その前後において東ローマ皇帝ゼノンによってパトリキウスの称号を賜っている。

王位就任に前後して東ローマ帝国の軍司令官、コンスルなどにも就任しており、488年にはゼノンの命令によってオドアケル討伐軍を指揮している。

テオドリックはイゾンツォの戦いやヴェローナの戦いにおいてオドアケルを破り、ラヴェンナを包囲するとオドアケルの降伏を促した。

テオドリックは当初オドアケルと家族の命は助けると約束していたが、まるで映画コマンドーのようにアレは嘘だ!と言ってオドアケルの一族を根絶やしにした。

この頃東ローマの皇帝はゼノンからアナスタシウス一世に代わりテオドリックは東ローマ帝国よりイタリア王の称号を賜る。

東ゴート王国国王テオドリック

テオドリックもオドアケルと同様軍備はゲルマン人が、内政はローマ人が担当するという政策を引き継ぐことにした。

また、外交面においてはフランク王国の国王クローヴイスの妹を妻にし、娘を西ゴート族国王の妃、妹をヴァンダル王の妃というように政略結婚を駆使することで無用な戦争を避けることに成功し、その治世は非常に安定したものとなった。

宗教問題と跡継ぎ問題

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テオドリックは熱心なキリスト教信者であったが正当と言われたアタナシウス派ではなくアリウス派の信奉者であった。

ニケーア公会議で異端となったアリウスは国外追放となったが、そのままゲルマニアの地で布教に励んだ訳であるが、その影響がこのような形で出たと言える。

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カトリックの総本山となるローマ教皇はそのことをそれほど問題視しなかったようであるが、東ローマ帝国はそのことを大変問題視した。何を今さらと言った感じではあるが、このことから東ローマ帝国との関係は徐々に悪化していく。

東ローマ帝国はローマの元老院議員と結託しアリウス派であることを理由にテオドリックを排斥しようとするが、テオドリックが東ローマ皇帝の手先であるアルビヌスおよびボエティウスという2人の議員を処刑することによって事態の収拾ははかられた。

476年ローマ帝国滅亡説を否定する人が多いのは、形の上では東ゴート王国は東ローマ帝国の土地であり政体であるという面が強いからであろう。

さらにテオドリックには男子が生まれず、その後継は孫のアタラリックということになったが、年少であったためにその後見には娘であるアマラスンタが就くことになる。

 テオドリックはその後見としてカシオドロスという人物に「マジステル・オフィチョールム」の任を授けている。

テオドリックは自らの出来ることはやってからその70年にも及ぶ生涯を静かに閉じた。

その1年後、東ローマ帝国にはある強大な力を持った専制君主が現れる。

その男の名はユスティニアヌス。