オスマン帝国の統治制度「ティマール制」について

オスマントルコの政治システムは鎌倉時代の政治システムに似ている部分があり、「ティマール制」と呼ばれる冊封体制に基づいて政権が運営されていた。

 徴税権のみを持つ者

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歴代の地方統治制度を見ると、ローマ帝国の属州総督制度やビザンツ帝国のプロノイア制、イスラム諸国が採用したイクター制などがあるけれども、オスマン帝国のティマール制は自由人のイスラム教徒に市町村単位の徴税権を与える代わりに当該地域の治安維持を任せるというシステムであった。

ティマールというのは封土の単位で、徴税権を持つ者はシパーヒーと呼ばれ、インドにおけるイスラム政権ムガール帝国で起きた「シパーヒーの乱」などもここに由来している。

彼らは徴税権を得る見返りにいざ戦争が起こると武器や軍馬を用意し戦闘に参加する義務があり、鎌倉時代の「御恩と奉公」の関係に近いと言える。

異なるのは武士が領主権を持つのに対しティマール制ではあくまで徴税権以外の権限はなかった点で、民政や裁判などはイスラムの法学者ウラマーが担当した。

鎌倉や室町の武士は世襲制であったがティマール制に世襲はなく、土着を防いでおり、豪族の出現などはオスマントルコ領内にはなかった。

また、ティマールを訴える権利を領民は有しており、事実上のシビリアンコントロールが機能していたと言えるだろう。

ティマール制はムラト一世の時期から始まったとされ、アナトリアやバルカン半島において実施されたという。

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各ティマール地はより大きな「県」に属し、県の太守が治める権限を持っていた。各県はさらに上位の「州」に属し各州の総督の支配を受け、その頂点にはオスマン帝国が存在しており、建国時の地方分権、というより部族の集合体であったオスマン帝国は徐々に中央集権化していくことになる。

ティマール制により各地に根を張っていた諸侯は力を削られ、アナトリアに勢力を持っていた「侯国」の支配者達は徐々に力を削られることになる。

元々トルコ民族は遊牧民族ではあったが、13世紀から14世紀には都を定め、オスマン帝国と争った。服従後は元々の地域とは異なる地域でのティマール地が与えられ、豪族となることもなく、オスマン帝国に完全に吸収される形となるのであった。

ティマール制の崩壊

非常によく機能していたティマール制度であるが、17世紀頃から人口の増加、経済的インフレ、敵国の重装備化などを受けて下火となり、19世紀の中頃には完全に廃止されることになる。

特にヨーロッパ諸国の急速な発展は装備の飛躍を招き、シパーヒー達では対抗できないようになっていった。それに加え徴税請負人の台頭などもあり、ティマール制はその意味を失っていったのである。