国王一家処刑の直接契機となったヴァレンヌ逃亡事件~そしてフランス革命は動き出した~

フランス革命が清教徒革命や名誉革命と言ったイギリス革命と大きく違う点がある。それは最終的には王政が倒れたことである。

ある意味王政が倒れたのは清教徒革命が初と言えるかも知れないが、クロムウェル亡き後すぐに王政が復古した。そしてそのままイギリスは今も王政が復古している。

どこまでをフランス革命とするかは難しいところだが、7月革命や2月革命などを含めて考えた場合、フランスの王政は妥当されることになる。

フランス革命も実は当初名誉革命同様穏健な革命になるはずだった。しかしヴァスティーユ監獄襲撃以来民衆は暴力的になった。血も流れた。もはや血の流れない「栄光ある革命」は成就し得なくなった。

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だからといってその段階ではまだ国王の処刑ということはほとんどの人間が考えていなかったことであろう。

フランス革命が国王の処刑という暴挙に向かって進んで行ってしまうのは「ヴァレンヌ逃亡事件」が起きてからであった。

 王たるものは国民から逃げ出すものではない

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革命を起こした民衆及び貴族たちも決して一枚岩ではなかった。ある人は立憲君主制を臨んだし、またある人は王政を復興させたいと思っていた。

革命の中心人物の1人であるミラボーは国王が国民議会を解散させてパリを離れ、王政による政治を行うべきだとルイ16世に進言したが、国王は「王たるものは国民から逃げ出すものではない」と言ってこれを拒否した。

民衆は国王のこの決意を歓迎し、流れはイギリスのような立憲君主制の実現に動くはずだった。

しかし結論から言えば国王一家はフランスから逃げようとした。

なぜそうなったのか?

これは現在でも議論の尽きないところであるが、国王が身の危険を感じたという説、王党派の有力者ミラボーが死んでしまったからだという説、そして国王一家は逃げるつもりなどなかったという説などがある。

ヴァレンヌ逃亡事件

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ルイ16世の一家は、王妃であるマリー・アントワネットの実家ハプスブルク家の支配するオランダに向けて馬車を走らせ、途中ヴァレンヌで捕まった。このことから歴史はこの事件のことをヴァレンヌ逃亡事件と呼ぶようになったわけだが、国王一家はある意味妻の実家に帰ろうとしただけという説がある。

だがこれは諸々を考えると無理があるだろう。

なにせ逃亡劇は夜中に行われた。馬車はあらかじめ用意され、警備の隙をついて国王一家は馬車に乗り込んだのだ。

しかしこの逃亡劇はかなりお粗末だった。

夜中の逃避行であるならば目立たぬように行うのが定石だが、用意された、いや、用意した馬車は非常に派手なものであった。華美に装飾された馬車に6頭の馬、数日分の食料と数人の従者が入る規模で、人目で国王の馬車であるとわかる作りであったという。オランダまでは馬車で1日もあればつく距離だったので、国王一家がもしお忍びに徹していれば歴史は大きく変わっていたかもしれない。

国王一家にとって不運だったのはこの逃走劇が何度も延期になってしまった点であろう。電信設備のない時代の話、国王一家とその逃亡を助ける部隊はポン・ド・ソム・ヴェールという馬車駅で合流する予定だったのだが、何度となく延期になってしまっていたため、実際に国王一家がその駅に遅れて着いた時には部隊が撤収してしまうということが起きた。

「大地が崩れ落ちるような気がした」

ルイ16世は駅に部隊がいなかったときのことを後にそう述懐している。

革命政府は朝になって国王一家が逃亡したことに気づいた。

国王一家がティリリュー宮殿から逃亡して24時間後、一家はヴァレンヌで捕縛された。一家は4000人の群衆とともにパリに連れ戻され、そこで裁判にかけられることになる。

フランス国王への信頼は失墜した。

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