宝島や黄金虫、ワンピースのモデルとなった海賊キャプテン・ウィリアム・キッド

スティーブンソンの「宝島」やエドガー・アラン・ポーの「黄金虫」など海賊の隠された財宝をモチーフにした物語は多いが、その大元となったのが「キャプテンキッドの財宝伝説」である。

 時代に翻弄された男キャプテン・キッド

f:id:myworldhistoryblog:20190727130536j:plain

キャプテン・キッドことウィリアムキッドは1640年代のスコットランドの港町に生まれた。

我々は「イギリス」と単体で常に見ているが、その内実は4つの地域からなる連合王国で、イングランドとスコットランドは長い間対立してきた関係にある。

特に宗教の問題は大きく、イギリス国教会を中心としたプロテスタントとカトリック勢力の争いは激しく、プロテスタント系牧師の家に生まれたキッドはチャールズ二世の推進するプロテスタント派への弾圧をきっかけに北アメリカに移住したとみられている。

キッドがまだ幼少期の1651年、イングランドにおいて航海条例が制定され、北アメリカではイングランド船以外を排斥する政策がとられていた。

このため密貿易が横行し、キッドはこの流れに乗って一財産築くことに成功する。

1670年代にはスペインとの間でマドリード条約が制定され、私掠船の制度は一時的に廃止されたが、イングランドの敵がスペインからフランスのブルボン朝に代わるのに際してフランスへの私掠船制度が復活することになる。

私掠制度というのは国家の保護を得て敵国の船への掠奪が認められる制度のことで、キッドは自ら築いた財産を以て私掠船団を組織し、フランスへの掠奪を開始、1690年にはフランス船二隻を拿捕する活躍を見せるも、航海士のロバート・クリフォードがキッドに対して反乱を起こし、船を乗っ取って逃走するという事件が起こる。

キッドはその後再び船団を組織しフランス船への掠奪を再開、植民地会議から表彰されるほどの活躍を見せる。

その後キッドはイギリス政府からの要請を受けてインド洋に向かう。

この時期のイギリスはインドのムガール帝国との関係を深めており、イギリスの東インド会社の船がオランダやフランスの船に襲われるという被害が多発していたのである。当時はルイ14世がヨーロッパ中で暴れまわっていた時期で、イギリス政府に艦隊を派遣するような余裕はなく、キッドのような私掠船にその役割が回ってきた訳である。

キッドは一時的にイングランドに帰国し、1696年にアドベンチャー号に乗ってテムズ川河畔にあるデットフォードを出航、しかしここでイングランド船に停止させられ、イングランド海軍に乗組員の半分を強制徴募させられるという憂き目に遭う。

ようやく出航したキッドは大西洋などで乗組員の補充やフランス船への掠奪などに臨むが、この時期まったくフランス船に遭わず、さらに乗組員に関してはあまり質が良いとは言えない食い詰めた海賊たちが多くなり、さらに雇用条件は掠奪の量に応じて支払うというものであった。

私掠船から海賊へ

f:id:myworldhistoryblog:20190727123848j:plain

キッド率いるアドヴェンチャー号はニューヨークから喜望峰を回りインド洋に入るが、途中一度もフランス船には遭遇せず、さらにその状態が10か月続いた。

そのことはつまり、船員にとっては報酬が支払われないことを表し、もはや船員による反乱は間近であると言っても良かった。

キッドはここで一大決心をする。

掠奪の対象を権限の認められているフランス船からアラブ船に変えたのだ。当時インド洋ではアラブ商人が交易の中心となっており、キッドはそれを狙う形になった。キッドの中では異教徒への掠奪なら多めに見てもらえるだろうという算段があったのかも知れない。

しかしキッドのその判断は誤りであった。当時のアラブ人は護衛としてイギリスの艦船を護衛として雇っていたのだ。

キッドは発見したアラブ船に攻撃を仕掛けるが、その護衛をしていたイギリス船に攻撃され撤退を余儀なくされた。

この事件でタガが外れたのか、私掠船船長ウィリアム・キッドは海賊キャプテン・キッドへと変貌した。

キッドの得意技はだまし討ちで、最初はフランスの国旗を船に掲げてフランス船に近づき、船が近づくと正体を明かして掠奪に及ぶというもので、対象はもはやフランス船に限った話ではなくなっていたのである。

キッドはそのようにしてある日アルメニア船を襲い掠奪に成功する。

しかしこの船の船長はイギリス人であり、このことがキッドの転落を決定づけた。

イギリス国王ウィリアム三世はキッドに対する逮捕状を発行し、キッド討伐の為の艦隊をインド洋に派遣した。

キッド自身は知らなかったようだが、イギリスとフランスの間では既に和睦が結ばれており、そもそもキッドの持っていた私掠船の免許は効力を失っていた。

私掠船に関してはこの手の話がよくある。通信設備のない時代ではこのような情報の錯そうはよくあった。

ちなみにこの時期キッドはかつて自分の船を奪ったロバート・クリフォードに遭っているらしく、ロバートもまた海賊に転身していたという。

キッドの逮捕

キッドは自分では有罪だと思っていなかった節がある。

キッドは北アメリカのボストンに行き、かねてより付き合いのあったベロモント伯に会っており、この際に逮捕されている。

その後身柄はイギリスに移送され、1701年、裁判を受けて有罪となり死刑の判決が下された。

その遺体には防腐処理が施され、見せしめのために数か月間放置されたという。

キッドは裁判の際、財宝を隠した旨の発言をしており、後日調査隊が向かうと実際に財宝が隠されていたという。

しかしその量が申告より少なかったことから、キャプテン・キッドの財宝は他にあるに違いないという話になり、それがスティーブンソンやポーの小説に反映された形になる。

個人的なキャプテン・ウィリアム・キッドの評価

キッドは時代に翻弄された人間と言える。

政変により宗教的な迫害を受け、私掠船になるも成果が挙げられず、さらに法律が変わったことを知らされず有罪となって死刑になってしまった。

海賊とは不思議なもので、モーガンやドレークのように国家の保護を受ければ英雄であり、キッドのようにそれがはく奪されれば死刑となる。

つくづく「正義」というのは立場の違いによる評価なのだと痛感させられる。

スティーブンソンやポーのおかげでキッドの名前は非常に有名になり、「海賊の遺した隠し財宝」というのは物語の一つの雛型になり、ゲームや漫画、映画などにも多大な影響を与えることになった。

中でも「ワンピース」という漫画に与えた影響はすさまじく、表題となっているワンピースは海賊王ロジャーが隠した財宝の通称であり、言う間でもなくその着想はキャプテン・キッドの財宝からきている。

世界史そのものに与えた影響はモーガンドレークに比べればはるかに小さいが、それでも後世に与えた影響は非常に大きい人物だったと言えるだろう。