フランス人はとにもかくにもアメリカの政策とは逆を取りたがる。これはフランスにとってアメリカはイギリスの植民地だった国であり、イギリスはそもそもフランスの領土だったという意識があるからであろう。
この意識が強いのは1066年、イギリスの歴史に最も影響を与えたと言われる「ノルマンコンクエスト」が起きたからであろう。
今回はフランスによるイギリス支配のもととなったノルマンコンクエストの中身とその主役であるノルマンディ公ギョームについて見て行こう。
フランス語を話せなかった王とイングランド貴族たち
歴代イギリス王において英語を話せなかった人物は珍しくない。
フランスにあるノルマンディ公国の生まれたエドワード・ザ・コンフェッサー(エドワード証聖王)もそんな王の一人であった。
彼の父は無思慮王と言われたエゼルレッド王で、母はノルマンディ公の妹エマであった。
この人物がフランスで生まれ育ったのにはかなり複雑な理由があった。
エゼルレッドはそのあだ名が表すようにお世辞にも優秀とは言えず、イングランド諸貴族たちはデーン人であったクヌートを歓迎し王位につけることにした。イギリスデーン朝の誕生である。
デーン朝のもとにおいて、イギリスは4大貴族に分割統治されることになる。これはイングランド王となったクヌートが同時にデンマークやフィンランドの王も兼ねたからだ。
で、この4大貴族というのはウェセックス伯、マーシア伯、ノーサンブリア伯、アングリア伯の四人で、イギリス史に詳しい人はこれらがかつてあったアングロサクソン7王国の生き残り国家であることに気づくと思う。
これらの貴族の中で最も強力になったのがウェセックス伯であるゴドウィンであった。エドワード証聖王も彼の意向で王になった部分があり、エドワードの兄アルフレッドはゴドウィンによって暗殺されているという説が強い。
エドワードは母であるノルマンディ公妹のもとで育てられたためにフランス語が話せず、イングランド貴族たちに不満を持っており、側近をノルマンディ出身者で固めたがゴドウィンによってそれらの近臣は追放され、その一生を傀儡として過ごすことになってしまった。
しかしエドワードもただでは死なない。
最期の抵抗として、自分の跡を継いでイングランド王になるのは当時ノルマンディ公であったギョームにしようと遺言したのである。
1065年、エドワード証聖王が亡くなった。その遺体は自ら建設したウェストミンスター寺院に葬られたという。
三つ巴の争い
エドワード証聖王が亡くなると、イングランド諸侯が集まり賢人会議を開いた。
会議ではゴドウィンからその地位を引き継いだウェセックス伯のハロルドがハロルド二世として即位をすることが決まった。
しかしこれに異議を唱える人物が二人。
一人はノルマンディ公ギョーム、もう一人はノルウェー王ハーラル三世。
ヨーロッパの王侯貴族は互いに政略結婚を繰り返しており、継承権を持った人物が多数いるのが常であった。中世ヨーロッパにおいて朱元璋や秀吉のような成り上がり王が出ない理由もこの辺りにある。それゆえに中世の歴史は最もつまらないと言っても過言ではないかもしれない。
それはさておき、まずハロルド二世とハーラル三世がぶつかった。
この戦いは後代においてスタンフォード・ブリッジの戦いとも呼ばれ、イングランド王となったハロルド二世の勝利に終わった。
この戦いによってハーラル三世は戦死、イングランドからはヴァイキングと呼ばれた北欧勢力は駆逐されることになる。
続いてノルマンディ公ギョームとイングランド王ハロルド二世が激突した。
後にヘースティングスの戦いと呼ばれるこの戦においてハロルド二世は戦死、ノルマンディ公ギョームの大勝利となった。
その後はカンタベリー、ウィンチェスター、ロンドンを占領し、1066年12月25日ギョームはイングランド王ウィリアム一世(ウィリアム征服王)として即位する。
イギリスノルマン朝の誕生である。
ノルマンコンクエスト
1066年の一連の流れをイギリス史および世界史では「ノルマンコンクエスト」と呼び、ウィリアム一世は征服王と綽名されることになる。
ウィリアム一世はノルマンディ公としてフランス王に臣下の礼をとっている身でもあるため、事実上イングランドはフランス王の領地となった訳である。
イングランドの伝統的な政治は、諸侯を集めた賢人会議と王の相談を経て行われていたが、ウィリアム一世はヘースティングスの戦いに勝利して後すぐにウェストミンスター寺院にて戴冠式を執り行い、イングランド王として即位した。
この戴冠式はローマ教皇も承認するところとなっており、実はウィリアム一世はイングランド上陸以前よりローマ教皇に打診済みであったというから用意がいい。実際に戴冠式に際してローマ教皇はウィリアム一世に対して聖ペテロ(イエスの一番弟子で初代ローマ教皇と言われる)の紋章旗を贈っており、その即位に祝福を与えている。
ウィリアム一世自身も前王であるエドワード証聖王の法という祖法を守る宣言をし、ノルマン朝が成立することになった訳である。
とはいえイギリスに住む皆がウィリアム一世の即位を認めた訳ではなかった。
1068年には4大貴族であるマーシア伯とノーザンブリア伯が反乱を起こし、1069年にはスコットランド王(イングランドの北部を支配)、デンマーク王、ウェセックス貴族たちウェールズ地方の豪族たちがウィリアム一世に戦争を仕掛けてくる。
しかしウィリアム一世の軍才は相当なもので、1071年までにはこれらの反乱をまとめて鎮圧している。
この反乱を鎮圧しながら、ウィリアム一世は巧妙に貴族たちの土地を没収し、自らの息のかかったノルマンディ系の貴族や司祭たちに分け与えていく。一説には4000人ほどのイングランド諸侯の土地は200人ほどのノルマンディ系諸侯によって分配されたと言われていて、まさに文字通りノルマンディ公によるイングランドの征服であった。
ちなみに、この時土地を与えられた諸侯は年に40日(戦役時は60日)の兵役の義務があり、王のテナント・イン・チーフ(王直属の封臣)となり、バロンズと呼ばれるようになる。ちなみに少し前に出てきた伯はアール、バロンは現在男爵と呼ばれており、この貴族位は現在でもイギリスに残っている。なお貴族位最上位であるデュークはこの時期「公」である。
ここまででも中々だが、この時期公用語はフランス語とされ、公式文書も全てフランス語で記載することに決まった。
これはかなりのインパクトであったことであろう。
ウィリアム一世の人事は中央の役人や諸侯はもちろん、地方に派遣する州長官(シェリフ)にも及び、さらにゲルド税という元はデーン人に対して払っていた平和金をウィリアムに払うようにした税金の復活までしている。
イギリスの歴史において、ここまで大々的に支配されたことは後にも先にもこのノルマンコンクエストの時期だけである。このような政策を可能にしたのは、その圧倒的な武力においてであろう。
「ペンは剣よりも強し」とはイギリス人作家の言葉であるが、実際には剣が何よりも強いということを、イギリスの歴史は証明してしまっていることになる。
ウィリアム一世はとにかくたくさんの政策を実行した人物で、司法権の整備や貨幣の鋳造、防衛拠点の整備なども積極的に行っており、現在でも残るロンドン塔やウィンザー城などもこのウィリアム一世時代に建てられたものである。
ウィリアム包囲網
イングランドでは圧倒的な支配力を発揮したウィリアム征服王であったが、その伸張を警戒する人物がいた。
フランス王フィリップ一世である。
ウィリアムはノルマンディ公としてフィリップ一世にはオマージュ(臣従の礼)をとっている存在であるが、もはやその力はフランス王おも凌ぐレベルになっていた。
フィリップ一世はアンジュー伯やフランドル伯と同盟を結び、更にここにスコットランド王が加わり、ウィリアム包囲網を完成させた。
ウィリアムはイングランド諸侯の動きに目を見張らせながら同時にフランス王に対する防備も固めなければならない事態に陥った。
しかし最大の敵は外ではなく内側にいた。
ウィリアム一世の最大の敵はイングランド諸侯でもフランス王でもなく、自分の子供であった。
フランス王やアンジュー伯はウィリアムの息子であるロベールを唆し、父に対して反逆させた。
ウィリアム一世と息子ロベールはジェルブロアの戦いにて激突し、ウィリアム一世は負傷しノルマンディの首都ルーアンに命からがら逃れることになる。
一度は体制を立て直したものの、1087年にフランス王と手を結んだ息子のロベールが再び攻め込んでくると戦闘中に再び負傷、それがもとで亡くなってしまう。
享年60歳。
個人的なウィリアム一世の評価
力こそ論理を地で行ったウィリアム一世が、息子の力によって最期を迎えたのは皮肉的な結果と言えるかも知れない。
歴史はある個人の才覚によって大きく動くことがあるが、ウィリアム一世はそういった才覚のあった人物の一人であろう。
問題なのはウィリアム一世の存在が後世に良い時代を導いたのかという点である。
後の歴史を見てしまうと、ウィリアム一世の征服によってイギリスの歴史は再び大戦乱の時代となってしまっており、平和な時代を創出することはできなかった。
この辺りはパックスロマーナを創出したカエサルやオクタヴィアヌス、宋王朝を作った趙匡胤辺りとは大きな差である。
ウィリアム一世は世界史に大きな影響を与えたが、英雄や名君とは言えない。
中世の歴史をつまらなく感じるのは、結局中世という時代が英雄を生み出さなかったからだろうな。