第十二代アメリカ合衆国大統領ザカリー・テイラー

ザカリー・テイラーは40年間の陸軍での仕官経験を持ち、アメリカ合衆国の大統領としては最期に奴隷を所有していた人物としても知られているが、奴隷制度に関しては比較的穏健な立場をとっていた。

任期は1年4か月と非常に短く、これは歴代でも3番目に短い任期であった。

 米墨戦争の英雄

ザカリー・テイラーはジョージ・ワシントンなどと同じようにヴァージニア州で生まれた。父親のリチャード・テイラーはワシントンと共に独立戦争を戦った人物であり、10000エーカー(約40㎢)という広大な土地に26人の黒人奴隷を使役する大地主であった。

ザカリーは幼少期をケンタッキー州で過ごし、近くに学校がなかったため家庭教師による教育を受けていた。学業的にはあまり素養がなかったようで、大人になると陸軍に入隊し、順調に昇進を重ねて行った。

米英戦争においては例によってネイティブアメリカンを散々に打ち破り、その功績でもって少佐にまで出世している。

アンドリュー・ジャクソンからザカリー・テイラーまでのアメリカ大統領には対ネイティブアメリカンにおいて功績のある人物が多い。

米英戦争が終わった後もネイティブアメリカンとの戦いであるブラック・ホーク戦争、セミノール戦争などに参加、ネイティブアメリカン達を次々と虐殺していった。

やがてジェームズ・ポークが大統領になると米墨戦争の最前線に投入されメキシコ軍を次々に撃破していった。

米墨戦争後は英雄として大統領選に立候補、第十二代アメリカ合衆国大統領となる。

第十二代アメリカ大統領

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1848年に起きたゴールドラッシュの影響で、カルフォルニアの人口が爆発的に増えた影響で、カルフォルニアを州にあげる必要が出てきたが、ここで大きな問題が起る。

この時点での自由州と奴隷州の数は均衡がとれており、カルフォルニアの加入でバランスが崩れてしまうのだ。

当時のアメリカでは奴隷制に賛成の州と反対の州が同じ数であったため、少しでもバランスが崩れると内戦が起こる可能性があったのだ。

結果的にはカルフォルニアは自由州として州に昇格したが、自由州が増えたことにより一気に内戦に傾いていくことになる。

国外については、中国を始めとした極東世界との交易に積極的になり、その結果としてペリーが日本に来航することになる(実際に来航するのは少し先)。

イギリスとの間にはクレイトン・ブルワー条約を結びイギリスがパナマに運河を作れないように米英両国におけるパナマ中立を確認する。

1850年、在位16か月目にして死亡。

以来20世紀後半にジミー・カーターが出るまで南部出身の大統領は出ないことになる。

個人的なザカリー・テイラーの評価

ザカリー・テイラーは軍人出身らしく、あまり政治には介入しなかった。特に奴隷制度に関しては比較的穏健な態度を取り、南部からの反発を招く。

ザカリー・テイラーは逃亡奴隷の返却を支援する逃亡奴隷法などのいわゆる1850年協定には反対の立場をとっており、それらの法律はザカリー・テイラーが死去した後即座に可決することになる。この流れは1854年のカンザス・ネブラスカ法を以て加速し、南北戦争の勃発を決定的なものとするようになる。

なお、ザカリー・テイラーが第4代大統領夫人であったドリー・マディソンの葬儀において「彼女は半世紀にわたり我々にとって第一級の女性です!」と述べたことが「ファーストレディ」の呼称の始まりだったと言われている。

任期が短かったこともあるが、特段後世に残るような制度も残しておらず、総じて大統領としては凡庸だったと言えよう。