歴史を決めた1戦!ザマの戦いになぜローマは勝てたのか?

「ザマを見ろ」の語源はこのザマの戦いにあると長い間信じていた。

でも調べたら鎌倉時代に仏像がおかれていた「座間」を見ろが語源だったじゃないか!

騙されてたぜ・・・

それはさておき「ザマの戦い」はまさに歴史を変えた一戦で、この戦いによりローマは地中海の覇権を完全に握ることになる。

世界史上最高の戦略家と言われるハンニバルとローマ史上最強の英雄であるスキピオ・アフリカヌスの2人の天才が実際に争った戦いでもあり、古代における戦闘のある様を変えてしまった1戦でもあるのだ。

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今回はそんなザマの戦いについて見て行こう。

 ハンニバルは負けを予測していた。

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ザマの戦いの以前まで、ローマはほとんどハンニバルに勝ててはいなかった。カンネの戦いをはじめ多くの戦いにボロ負けしており、唯一の勝利と言ったらイタリアの剣と呼ばれたマルケルスが挙げたノラの戦いでの小規模な勝利ぐらいである。

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そんなハンニバルだったが、戦う前からザマの戦いでは敗北を予測していた節がある。

ハンニバルが史上最高の戦略家である由縁はその圧倒的な現状把握能力にあっただろう。

ハンニバルは自身の不利をわかっていた。

もう少し言えば、ハンニバルとスキピオの2人だけが恐らくわかっていた。

兵力で言えばハンニバル率いるカルタゴ軍の方が有利であった。

カルタゴ軍は50000人を超えるほどで、スキピオ率いるローマ軍は40000人を少し超えるほどであったので、諸々考えてもカルタゴ側が有利そうである。

だが、不利を悟ったハンニバルはスキピオに会談を申し込み、講和を結ぼうとした。今迄ローマ殲滅しか考えていなかったハンニバルが、である。

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そしてスキピオは「戦場で語りましょう」とだけ言ってこの講和を撥ねつけた。スキピオは自身の勝利を疑わなかったからであろう。

超天才の2人だけがこの戦いの勝敗を正確に予測できていたのだ。

山川の世界史用語集で「ザマの戦い」について調べてみると以下のように書いてある。

「カルタゴ南西の地で、ローマ軍がカルタゴに圧勝した戦い。これにより第2回ポエニ戦争の勝敗が決定し、カルタゴは全海外領土を失い、多額の賠償金が課せられ、西地中海の海上権はローマが優位を占めることになった」

高校生の頃の俺は不思議だった。どうしてハンニバルのいるカルタゴ軍にローマ軍は圧勝できたのかと?

答えは騎兵の数にあったと言われる。

ハンニバルだけが知っていた

少し話をさかのぼる。

ハンニバルは少ない兵士と少ない損害でローマ軍とのカンネの戦いにおいて圧勝した。

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どうしてこのようなことが可能だったか?

1つは包囲殲滅戦が成功したからであり、もう1つは騎兵の数で勝っていたからだ。

ほぼ同じ時代、漢の高祖こと劉邦は匈奴という騎馬民族に負けた。

匈奴はやがて草原の道を通り、フン族と呼ばれるようになり、ゲルマン人を散々に蹴散らした。そのゲルマン人は最終的に西ローマを滅ぼすのであるが、騎馬民族は基本強い。

史上最大の帝国を築いたのが騎馬民族の帝国であるモンゴル帝国であることからもそのことはお判りいただけるだろう。

三国志において涼州閥である馬超や呂布が強かったのもこのためだ。

ハンニバルは当時地中海のヌミディア騎兵を引き連れてアルプス越えを果たした。正気の沙汰ではないが彼はそれを実現させた。

ローマに馬は少ない。馬に乗れる者はもっと少ない。

ローマは傭兵には頼らずに自国の人間が兵となる。

馬に乗れるのは貴族階級か上級の騎士階級に限る。

圧倒的に騎兵が足りていなかったのだ。

当時は鐙などない。鐙(あぶみ)は4世紀の中国で開発したとみられていて、ヨーロッパには6世紀頃に伝えられたと言われている。

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鐙なしで馬に乗るのにはかなりの訓練が必要だ。

当時ヌミディアの騎馬隊が地中海最強と言われていたのはこれが由縁であり、ハンニバルはこれをよく知っていた。

そしてスキピオも良く知っていた。

スキピオはまだ10代の頃にトラシメヌス河畔の戦いおよびカンネの戦いに参加して敗北を味わっている。

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スキピオはただ敗北した訳ではない。敗北から学んだのである。

スキピオは父と叔父をバルカ一族との闘いで失っている。

ハンニバルがローマを滅ぼすために生まれてきた男ならスキピオはハンニバルを倒すために生まれたような男である。

スキピオはヌミディアの王子マシニッサと同盟を結び騎兵をそろえた。当時カルタゴはマシニッサのライバルであるシュファクと手を結んでいたが、スキピオはバグラデス川の戦い及びキルタの戦いでヌミディア・カルタゴ連合軍を破りマシニッサをヌミディアの王にすることに成功する。

恐らくこの時にスキピオは勝ちを確信したことだろう。

逆に恐らくハンニバルはこの時に敗北を悟ったに違いない。

パニックになったカルタゴはハンニバルをイタリアからカルタゴに呼び寄せるという愚策を敢行してしまう。

ハンニバルと言えども国の命令には従わなければならない。ハンニバルはイタリアから去り、アフリカに上陸した。

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騎兵だけに限ればカルタゴは3000、ローマは6000というものであった。

騎兵だけならローマが有利。

そんな状態で、2つの軍はザマにおいて戦いを開始した。

Battle of Zama

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ハンニバルは会戦当初象部隊を全面に展開した。

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しかしスキピオはこの作戦を完全に読んでいた。ローマ式の密集戦法は捨て、スキピオはそれぞれの隊の間に隙間を作り象の突進をスルーした。

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象は一度突進を始めると向きを変えることも止まることも難しい。スキピオはこの点をついた。

ローマ軍を通り過ぎた象にスキピオは騒音攻撃をした。象は大きな音に弱い。混乱した象はあっという間に鎮圧された。

それと同時にスキピオは両翼にいるカルタゴの騎兵に自軍の騎兵を突撃させた。

ハンニバルは常に両翼にヌミディア騎兵を配置していた。スキピオはこれをよく知っていた。

カルタゴの騎兵を打ち破った騎兵軍団はそのまま突進を続けた。

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そして後方からカルタゴ軍を強襲した。

包囲網の完成である。

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あとはもう勝負にならなかった。

包囲されたカルタゴ軍は壊滅した。

ハンニバルは自ら開発した騎兵を主軸とした包囲戦法に負けたのだ。

スキピオはハンニバルの戦法を悉く真似た。またハンニバルがどういう戦法で来るのかと言うことを悉く研究していた。

皮肉にも、ハンニバルは自らの戦法で敗北をすることになり、自らの手で最強のライヴァルを生み出してしまったのであった。

ザマの戦いは終わった。

ハンニバルはなんとか生き延び、カルタゴの全権大使となってローマ側のと講和においてその条件を全て飲んだ。条件は以下のようであったという。

  • カルタゴはローマの同盟国となる。
  • カルタゴはローマの承諾なしには戦争を行わない。(これで実質のカルタゴは完全な自治国家とはいえなくなった)
  • シチリア、サルデーニャ、スペインにおけるカルタゴ領の領有権を放棄する。
  • 軍船は10隻を除き全てローマに引き渡す。

これ以降、山川の教科書にあったようにローマは地中海の覇権を握り、世界国家へと変貌していく。

一方のカルタゴは、牙を抜かれ、静かに、だが確実に滅びの道を辿っていくのであった。

猛きものもついには滅びん

偏に風の前の塵に同じ

まさに盛者必衰の理である。