オスマン帝国がヨーロッパ諸国を圧迫するほど発展し、600年と言う長期間続いた要因はいくつかあるが、デウシルメ制度とカプクルもその要因の一つであろう。
イエニチェリへの人材供給
デウシルメとは、キリスト教徒の少年を徴用する人材登用制度で、最初はバヤズィット一世の時代に、本格的に始まったのはメフメト一世の時代であると言われている。
17世紀には廃止されるが、それまでの期間のオスマン帝国の繁栄を支えた制度であり、オスマン帝国の強さの秘密でもあった。
オスマン帝国はバルカン半島やアナトリアを支配下においており、そこには多数のキリスト教徒が住んでいた。オスマン帝国は強制的な改宗などをしなかったために領内には多数のキリスト教徒が住んでいられたのである。
そのようなキリスト教徒の少年の中から眉目秀麗なイケメンでかつ強そうな人間を徴用し、ムスリムに改宗させトルコ人の農村にホームステイさせてトルコ語を覚えさせたのち特に優秀な人物は宮廷に、その他の者はイエニチェリとして常備軍に配属となった。
宮廷に入った少年たちはエリートとしてスルタンに仕え州の総督や宰相になるものもいた。15世紀、16世紀においては政治的なエリート層を形成するほどになり、国政を左右することにもなる。
イスラムの文化においては戦争の際捕虜とした異教徒を奴隷にすることは推奨されているものの、領内の異教徒を奴隷とすることは実は禁じられていて、厳密はイスラム法に抵触していることになるが、この辺りはやはり元々の遊牧民族としてのトルコ人らしいと言えるかも知れない。
オスマン帝国のスルタン位はカリフの任命によるものであるが、特にその後ろ盾がなくても強大な軍事力を持つオスマン帝国には不都合はなく、中世におけるローマ教皇とカリフはその権力に違いがあり、デウシルメ制度はその最たる例と言えるかも知れない。
マムルークなどの軍事奴隷も似た制度であるが、マムルークが解放されることがあるのに対しデウシルメで徴用された者が解放されるということはなかった。
カプクル
カプクルとは王の奴隷を意味する言葉で、デウシルメ制によって徴用された者たちは皆このカプクルにあたった。
イスラム法において、イスラム自由民は裁判なしで処刑されることはなく、すなわち身分が保証されていた訳であるが、奴隷はその限りではなく、スルタンはカプクルに対し制御が可能であった訳である。
そのためカプクルを徴用し、その権力を抑制するとともに中央集権化を行うことが出来たのである。
カプクルを多用した背景にはアンカラの戦いでの敗北があるとみられており、そのころのオスマン帝国は地方分権的に諸侯の集まりという面が強かったためその部分をティムールにつかれて惨敗したと言える。
そのためオスマン帝国は中央集権的な政治システムを目指したという。
デウシルメ制度を利用した官僚制度
そのような背景もあり、デウシルメ制度で徴用された者たちを官僚とし行政を担当させる仕組みが出来上がっていった。
それによってオスマン帝国のスルタンは行政も軍事も握ることに成功し、権力を一極へ集中させることに成功する。
デウシルメ制度で徴用されたカプクルはスルタン個人の奴隷であるため、その権力集中に役立ち、オスマン帝国は急速に中央集権的な国家になっていくのであった。