中国4000年の歴史にはとんでもない暴君も多いが、とんでもない悪女も多数存在している。
今回ご紹介するのはちょっとけた違いな人々なので閲覧する場合は注意をされたし。
という訳で中国史上歴代悪女ランキング行ってみよう!
6位:妲己・褒姒・末喜
世界史を動かした美女ランキングにも登場した人々。
それぞれ殷王朝、周王朝、夏王朝最期の皇帝の妻だった人たちなんだけど、あまりにもそのエピソードが似すぎているので恐らくは創作ではないかと言われている。
中国史において新王朝は旧王朝のことをボロクソに言うことがあるので、その一環なのではないかという話がある。
いずれも皇帝が妃の歓心を買うために政治を滅茶苦茶にした結果国が滅びたという話である。多分どれかはオリジナルなんだろうけど、亡国のひな型なんだろうなと思う。
今回紹介する女性たちの中では悪女度合いは低いんだけど、国を滅ぼしたという意味では悪女がとても高い人たちかも知れない。でもどちらかというと色香に惑わされた男たちが悪いんだよなぁ・・・
5位:孫魯班(大虎)
よほどの三国志マニアでないと知らないだろうが呉の建国者孫権の娘である。はじめは周瑜の息子と結婚していたが夫が死去すると全琮将軍と結婚した。
あまりにもややこしすぎるので詳細は省くのだけれど、二宮事変と呼ばれる呉内部における後継者争いを引き起こし、反対派を次々と粛正していった女性だ。
粛正された人物の中には劉備を夷陵の戦いで破った呉の英雄陸遜などもおり、呉はその国力を急速に落とすことになる。
三国志と言うと劉表や袁紹が跡継ぎ争いの末国力を大幅に衰退させたことが有名だが、呉の跡継ぎ問題ほどではない。
二宮事変についてはややこしすぎるので以下の記事を参考にしてもらえると良いと思う。
正直何がなんだかよくわからない・・・
4位:則天武后(武則天)
この人に関して言えば近年その評価が変わってきている。
歴史的には中国4大悪女ともいわれているが、反面中国史上でもトップクラスの君主なのではないかという意見もある。
彼女は唐の太宗の後宮に入るのだが、次の後継者であるその子供高宗に気に入られると皇后に取り立てられる。
この時高宗には既に皇后がいたのだが、則天武后を皇后にしたい高宗はほぼでっちあげの罪で皇后や他の妃を庶民の地位まで格下げしてしまう。
則天武后はこれらの元皇后や妃などを杖で100叩きにしてからかつ処刑するというとんでもない行動に出る。
やっぱ悪女だよな、この人・・・
高宗が亡くなると中宗が即位するが理由をつけて無理矢理自分の息のかかった睿宗を皇帝にし意のままに操るようになる。当然それに反対する人々も多かったが、則天武后はそういった人間たちを次々と殺害していく。当人たちだけでなく一族を皆殺しにしたというから恐ろしい。
何を血迷ったか則天武后はこの後なんと自ら皇帝を名乗ることになる。国号は「周」と変え、自らを聖神皇帝と名乗った。
宇宙大将軍もそうだけど、こういう人物ほどこういう大層な名前を付けたがるんだよなぁ。小さいころ「スーパーウルトラアルティメットグレイトハイパーバリィ」とか言ってとりあえずすごそうな名前を付けるあれと同じ真理だと思う。
則天武后は自分のことを本気で弥勒菩薩の生まれ変わりだと思っていたらしいが、その治世は安定したもので、大規模な農民反乱などは起こっていない。
特に暗殺されることもなく天寿を全うしており、これから出てくる悪女とは一線を画す存在かも知れない。
唐に関して言えば則天武后の後の玄宗皇帝の時代の方がはるかに荒れているので、楊貴妃の方が悪女度は高いのかも知れない。
でも楊貴妃は虐殺とかしてないしなぁ。
3位:江青
20世紀の悪女と言えばフィリピンのマルコス婦人やルーマニアのチャウシェスク婦人とともにこの人の名前が挙がる。
毛沢東自身もそうなんだけど、江青のことも実はよくわかっていない部分が多い。この人たちが死んでからまだ50年経っていないのだけれど、下手するとローマ時代以上にわからないことが多い。
彼女は山東省の生まれで、藍蘋という名前で演劇を中心とした芸能活動を行っていたことが知られている。以前に付き合っていた男性の影響で中国共産党に入党していて、25歳の時に毛沢東と結婚するようになった。江青はこれが3回目の結婚である。さらに毛沢東は結婚していたが江青と結婚するために離婚している。このことが周恩来などの共産党幹部の反感を招いており、後にそれが爆発することになる。
女優時代は王瑩が主演する映画に脇役としてよく出演していたらしいが、この頃自分が主演になれなかったことに怨嗟の感情を募らせることとなり、こちらも後に爆発する。
やがて日中戦争および第二次世界大戦が終わり、国民党を率いる蒋介石が敗れると毛沢東は中国の最高指導者となる。この頃から江青は表舞台に出るようになるが、所謂「大躍進」政策が失敗し1000万人単位の死者がでると毛沢東は失脚、やがて悪名名高き「文化大革命」が起こる。
「文化大革命」が起きたのは1966年と最近のことなのだけれど、その内容はいまだによくわかっていない。昔莫言という作家の本を読んだ時、文化大革命に関する記述だけすっ飛んでいたのが印象的だったが、中国ではいまだに文化大革命に関する言論の自由はないらしい。
文化大革命自体が言論の自由を制限する運動だったが、この時の江青の暴れっぷりがすさまじい。
かつて自分を厚遇しなかった演劇界に対しては激しい弾圧を加え事実上根絶やしにし、先ほど出てきた王瑩という女優をほぼ意味もなく投獄、彼女はそのまま獄中死している。
かつて自分の存在を疎んでいた周恩来の義理の娘や劉少奇の妻などを逮捕もしくは投獄し死に至らしめる。
その他にも自分の意にそわない人物を片っ端から逮捕投獄し、自身は贅沢の限りを尽くすなど滅茶苦茶な政治をした挙句ライバルを次々と失脚させていったが、毛沢東が死ぬとその権力を急速に失い、最後は逮捕され、失意のうちに自殺することになった。
彼女の粛正の対象はほとんどが女性に向き、自分よりも優れた女性を見ると激しく嫉妬したという。
2位:西太后
中国が長い間欧米に後れを取ったのは全部この人のせいなんじゃないだろうか。
西太后の正確な出自は未だを以てよくわかっていない。彼女は清王朝の官僚の娘として生まれ、17歳の時に紫禁城で行われた皇帝の妃を決める試験である選秀女を受けて合格する。
あらためてこんな試験があること自体がすごいな(^^;)
咸豊帝の正妻は東太后だったので、そちらと区別されるために西太后と呼ばれる。
咸豊帝が死んだあとは中華の歴史名物の跡継ぎ争いが始まる訳だが、権謀術数を使った結果西太后の息子が同治帝として即位、彼女は皇后にはならなかったが皇太后になることに成功する。
同治帝が幼かったこともあり、西太后は自ら政治の実権を握り自分に都合の良い政治を行うようになる。
同治帝が早々に亡くなった後は妹の子供を光緒帝として即位させて相変わらず政治の実権を握り続けた。
彼女に関してはかなりとんでもないエピソードが語られることが多いが、大体ウソであることが多い。その中でも代表的なのが気に入らない女官の手足を切り取りそれをかまゆでしているのを見て食事をしたエピソードと光緒帝の食事に毒を盛り続けたというものであるが、どちらも根拠はない。西太后最大のライバルともいえる東太后の死は西太后のせいだとされるがそれも根拠がない。
では西太后が善政を行ったか?
それはNOである!
彼女の政治は事実無茶苦茶だった。
歴史の教科書にも出てくるように当時中国にも近代化の流れがあった。李鴻章などが中心となって行った洋務運動である。洋務運動は中止になった。理由は予算不足である。西太后生誕60周年は盛大に祝われた。そしてそこに予算を使ったため洋務運動は中止せざるを得なくなったのだ。他にも庭園の増築費用などを国庫からねん出した結果、当時突如として台頭してきた日本という国にボロ負けしてしまう。
また義和団事件の時に権力を握っていたのもやはり西太后である。
日本に負けたのはやはりショックであったようで、変法自強運動が起こる訳であるが、結果的に言うと失敗。その後国内では不満が募り、義和団事件が起こる。義和団は西洋各国の建物などを襲い外国勢力の排除に乗り出していた。西太后はこれ幸いと義和団を応援するのだが、一瞬にして列強によって義和団が壊滅させられると北京から逃げ出す始末。
この結果各国に賠償金を支払うことになった挙句に諸外国の軍隊の駐留を許すことになってしまった。
1908年、光緒帝が亡くなるとすぐに西太后も亡くなり、次代の皇帝にはラストエンペラーである溥儀が選ばれることになる。
だが、西太后のもとでその力のほぼ全てを失った清はそのわずか3年後に滅びの道をたどることになったのであった…
西太后に関して言えば江青と違って女性特有の嫉妬で相手を陥れることは少なかったが、権力欲が半端なく、自分の意に添わなかった人間を殺害させるなどやはり悪女であった。有名なのは光緒帝の寵姫である珍妃で、西太后の命令によって井戸に投げ込まれて死亡した。
西太后の場合は暴君的な面を持ち合わせていたのはもちろん、暗君としての特徴が強かったと言える。日清戦争や義和団事件と言った数々の動乱に対処をするだけの力が彼女にはなかった。
もし彼女が名君であったなら、中国の歴史は大きく変わっていたことだろう。やったこと自体は則天武后の方が酷いが、総合的にはこちらの方が酷いと言えるので2位。でもその残虐さにおいては1位には遠く及ばないかな。
第1位:呂雉(呂氏)
悪女という意味では断然ダントツの1位であろう。
漢の高祖こと劉邦の妻である。
漢といえば「漢字」や「漢民族」の語源のことで、劉邦はその初代皇帝である。
絶対的権力は腐敗するとはイギリスの歴史学者アクトンの言葉だがここまで権力が暴走する例も世界広しと言えども少ない。
呂雉は劉邦が項羽と戦っている時は良い妻であったらしいのだがどうしてこうなった・・・
呂雉が暴れだすのは劉邦が亡くなった後のことで、息子である劉盈が皇帝になってからのことだ。
西太后もそうだったんだけど、子どもが皇帝になると暴れだす女性が中国には多い。
余談なんだけど劉盈が皇帝になるまでには結構色々ともめて、劉邦自体はこの子供があまり好きではなかったようで跡継ぎには戚夫人子供劉如意をと考えていたらしい。それを呂雉や張良が反対してなんとか皇帝になれたという話がある。ついでに言うと劉盈は追っ手に追われる劉邦が荷馬車を軽くするため馬車から突き落とされるという散々な目にあっており、それを拾ったのが夏侯嬰という武将だった。その夏侯嬰の子孫こそがのちに漢王室を滅亡させた曹丕の父曹操であるから歴史は面白い。
ただ、劉邦の見立ても最もで、劉盈は争いを好まない温和な性格であったようで、政治はほとんどせず、後に暗愚を意味する恵帝という名前を贈られている。
余談はさておき呂雉が実際行ったことを列挙してみよう。
・息子のライバルであった趙王劉如意とその母親である戚夫人を殺害
・夫の寵姫であった戚夫人に対しては両手両足を切り落とし、目玉をくりぬき、薬で耳・声を潰し、その後便所に置いて人彘(人豚)と呼ばせ、そのさまを笑い転げながら見ていた
・息子恵帝が死去すると別の人間を皇帝にするも殺害して自分に従順な劉弘を皇帝にした
・劉邦が自分以外の女と作った子供たちを次々に殺害した
・要職に自分の一族をとりたてて外戚政治を行った
有名なヨハネスブルクのコピペだってここまでひどくない!
何が恐ろしいかってこれが歴史書に載っていることである。西太后に関しては噂に尾ひれがついている感じがあるが、呂雉に関しては恐らくすべて実際にやったことだろう。特に人豚の下りがすさまじすぎる・・・
日本でも北条氏や藤原氏のように外戚が政権を握ることは多いが、呂雉はその最たる例ともいえる。
中国史は宦官と外戚による権力争いの歴史でもあるが、宦官の力が弱まると外戚が強くなり、外戚が弱くなると宦官の力が強くなる傾向にある。
漢の前の秦は実質宦官に滅ぼされたようなものだったが、漢帝国自体は宦官の暴走によって国がメチャクチャになった節がある。
いずれにしても実に恐ろしきは女性の嫉妬と言ったところだろうか。
男性は、その残酷さにおいては女性には全く及ばないと言えるだろう。
権力と女性の嫉妬が結びついた時、そこには血の雨が降るのかも知れない((((;゚Д゚))))ガクガクブルブル