「錦馬超」と呼ばれ派手なイメージの強い馬超であるが、実際の歴史である正史三国志と史実をもとに作られた三国志演義で最もキャラクターに差異がある人物と言えるかも知れない。
今回は神威将軍と呼ばれた馬超孟起の激しい人生について見て行こう。
悲劇の名将
献帝を擁した曹操は、漢王朝の名を以て自らに都合の良い命令を諸侯に強いていた。
ある日鹿狩りに出た時の事。あろうことか曹操は献帝の弓を使い鹿を狩り、朝臣たちからの称賛を受けていた。そのことに文句を言える者もおらず、袁紹亡き後その専横を止められる勢力も皆無となる。
これを苦々しく思った漢の忠臣であった董承は、同じように漢王朝に忠誠を誓う忠臣馬騰と共に曹操暗殺計画を立てる。
ある日の鹿狩りにおいてその計画は実行されるが、計画は事前に漏れており、董承と馬騰の一族は全員処刑、漢王朝の命運は尽きようとしていた。
後漢の名将馬援の地を引く馬騰は息子の馬休、馬鉄と共に処刑され、ただ一人馬超とその従弟である馬岱のみが涼州に残り、父の死に打ち震えた。
馬超は父馬騰の義兄弟であった韓遂と共に、涼州の諸侯に声をかけ、曹操打倒を宣言する。
錦馬超見参!
父を殺され、馬超は怒りに燃えていた。
面は冠の玉、眼は流星、虎体猿臀、豹の腰に狼の腹、白の直垂に白銀の鎧をつけたその様は神威将軍の名で恐れられており、「錦馬超」と言われその威容は広く中華世界に轟いていた。
「貴様の生肉喰らってやる」
渭水を挟んで曹操に対面した馬超はそう言って曹操陣営への突撃を開始した。
これを迎え撃ったのは曹操軍の五将軍の一人と後に言われるようになる于禁。
怒れる錦馬超の勢いは于禁には荷が重すぎた。8合と打ち合わない間に于禁は落馬、次にやってきたのは名将と名高い張郃であったが、これも20合ほど打ち合ったところで退却、功を挙げたい一心でかかってきた李通も一突きにし、曹操のもとへ一直線に突撃してくる。
「げぇ、馬超!!」
もうダメかと思った瞬間、馬超の前に曹操の親衛隊長である許褚が立ちふさがった。
二人の勝負は一昼夜にも及ぶが結局決着はつかず、両軍は一度戦場より撤退することになる。
離間の計
曹操は震えが止まらなかった。許褚がいなければ今頃命はなかったであろう。もう二度と馬超の顔は見たくない。
「誰か策のある者はおらぬか?」
いつものように曹操が部下に意見を聞くと、賈詡が一歩進み出て「離間の計」を献策した。馬超ではなく、馬超と共に兵を起こした韓遂を篭絡しようとしたのである。
賈詡は韓遂に手紙を書き、それを馬超に分かるようにした。
馬超は韓遂が裏切ったと思い、これを攻撃、結果的に韓遂は曹操の許に降り、涼州の諸侯たちも次々と離脱していく。馬超はそれでも曹操軍に挑むが、夏侯淵や曹洪と言った曹操の一族たちが援軍をもってかけつけたこともあってあえなく敗退。妻子を含む馬超の一族は曹操に捕まり、直ちに処刑、ただ一人残った一族の馬岱、右腕とも言える部下龐徳と共に漢中にいる五斗米道の教祖張魯のもとに身を寄せることにした。
劉備玄徳との出会い
益州の劉章は強気になっていた。同じ劉の姓を持つ後漢の末裔劉備玄徳が味方についてくれたからだ。
劉章は長年目の上のたん瘤になっていた張魯の討伐を劉備に依頼した。
張魯は張魯で馬超を劉備とぶつける作戦に出る。
猛烈な勢いで突撃してくる馬超の前に、雷のような声の大男が仁王立ちになっている。
「我こそ張翼徳!なんでもいいから俺と勝負しろ!」
馬超もこの手合いが嫌いではない。両者は打ち合うこと数百合、まるで決着がつかず、お互いの武器は壊れ、殴り合いの中で友情が生まれていた。
やがて馬超は引き返していったわけだが、諸葛亮孔明がそれを見逃すわけがない。彼は張魯軍の内情をよく知っていた。楊松という側近が馬超にその地位を奪われるのを危惧していることを知っていた孔明は、楊松に馬超は劉備側に寝返ったよん♪という内容の手紙を送る。楊松は張魯にこのことを讒言し、馬超は帰るところを無くしてしまった。
放浪する馬超のところへやってきたのが李恢という劉備の配下。
「帰るところがないのなら我々のところに来なされ」
「むむむ」
「何がむむむだ!!!」
かくして馬超はただ一人残された一族の馬岱と共に劉備玄徳のもとに降ることにする。この際右腕の龐徳は張魯のもとに残り、張魯が曹操に降伏したため曹操の将軍となって活躍することになる。
馬超の帰参をしった劉備は「これで益州を手に入れたぞ」と言って大はしゃぎ。孔明もこれで自分の言った天下三分の計に近づいたと静かにほくそ笑むのだった。
五虎将軍
やがて劉備は益州を平定し、曹操から漢中の地を得ることに成功し、蜀を建国史皇帝として即位した。
その際馬超は関羽や張飛と共に五虎将軍に任命される。
馬超がいつ死んだかは分かっていない。
まるで閃光のような生涯であった。
正史での馬超孟起
というのは全部「三国志演義」という創作の話。
このブログは世界史ブログなので史実のことも書かねばならない。
馬超は三国志演義において最も優遇された人物であり、演義と正史の馬超は別物であると思って良い。
正史での馬超もやはり馬騰の子として生まれ、後漢の名将馬援の血はしっかり引いている。名門の少ない劉備陣営には珍しいほどの名門生まれだと言える。
演義では馬騰が漢王朝に忠義を果たそうとして曹操に殺されたことになっているが、史実では馬超が兵を挙げたため都にいた馬騰が処刑されるという演義とはまるで違うことになっている。
馬騰と曹操は元々同盟を結んでいて、官途の戦いの後には袁紹軍の残党を倒すために援軍を派遣しているほどである。
演義だと漢の忠臣のように書かれている馬騰だが、董卓の部下になったり李確たちに絶対恭順したり忠臣とはちょっと言い難い面もある。
もっとも、李確とは対立して実際に戦ってしかもボロ負けしている。呂布にも勝っているし、李確は割と戦には強いのかも知れない。
ちなみに馬超は若いころ韓遂配下の閻行という人物にボコボコにやられて命からがら逃げ延びたという記録もあるのだが、馬超を英雄とするために三国志演義ではこの話はなかったことになっている。俺自身、この話を知った時はそりゃあショックだったぜ。三国志でも最強クラスの武将がそんな名もない武将に一方的にボロ負けしたなんてな。。ちなみにこの閻行という人物強者なのかと思ったら後に敵前逃亡しているぐらいの小物だったりする。演義の作者羅漢中がこの人物を一切演義に登場させていない理由がよく分かる。
馬超が曹操と敵対した理由は結構複雑で、馬騰と韓遂は義兄弟になるほど仲が良かったが、結局仲たがいしお互いを攻撃するまでになっていた。ここで仲介に立ったのが曹操で、それでも戦いがやまないので馬騰を中央の官吏として呼び戻したのであった。そして五斗米道という道教の一派を討伐すべくその教祖である張魯打倒の兵を挙げたのだが、馬超はこれを自分たちを討伐するための出兵だと思い込んでしまったのである。
馬超は韓遂や他の涼州の兵と共に打倒曹操の兵を組織し、曹操との間に潼関の戦いを始めることになる。
潼関の戦い
韓遂は曹操の戦いを渋っていたが、馬超は積極的に曹操との戦いをするように説得した。馬超は馬騰の軍をそのまま引き継いでおり、二人が兵を挙げると涼州軍閥であった楊秋や成宜などの諸侯もこれに呼応し、涼州閥と曹操の間の戦いが始まった訳である。
史実の馬超は勇猛ではあるが同時にかなり残虐な性格をしていて、王異に見る逸話などはかなりその性格を表している。
王異というのは男っぽい名前であるけれども、女性である。趙昂という人物の妻で、息子を人質として馬超に取られるも馬超への反抗をやめず、結局息子を殺されている。その前に趙昂の部下であった韋康という人物が馬超に降伏したのだが、馬超は命を助けるという約束を反故にし、この韋康という人物のことも殺している。
さて、肝心の潼関の戦いであるが、まずは曹仁が馬超の侵攻を防いだ。
演義だとこの功績も無くなっている可哀そうな人物であり、一番演義では損をしている人物であろう。
次に徐晃が涼州閥と渡り合い、その間に曹操は馬超本軍の襲撃を受けており、ここは演義のように許褚が曹操の命を救ったようである。曹操の人生においても最大級のピンチの一つであったようだ。
戦闘が激しくなったので曹操、馬超、韓遂の三者で講和会議を開いた際、鴻門之会よろしく馬超は曹操を殺そうとしたが、許褚がいたのでできなかったという。
その後講和は決裂し、これも演義同様賈詡の離間の計にかかり馬超と韓遂は決裂、、涼州連合軍は統率がとれずに曹操軍に大敗北することになる。
曹操はその後馬超の一族を処刑し、演義同様馬超の一族は馬岱だけとなる。
馬超はご先祖様の威光もあったのか、羌族と同盟を結び、涼州で再び争いを起こす。夏侯淵が涼州に派遣されるもこれを破っており、チベット系の氐族とも手を結ぶも先ほど出てきた王異を始めとした諸勢力の反抗にあい軍勢を無くし、演義同様張魯のもとを頼って逃げ延びる。
その後、馬超は自らの意思で劉備に帰順している。この時自分の妻子は張魯のもとに置いており、やはり馬岱だけを連れて行ったようだ。劉備はこれを聞いて喜び、馬超を厚遇している。
やがて漢中王になると馬超を左将軍に、221年に蜀が建国されると驃騎将軍に任命されるも翌年亡くなってしまう。
残念ながら五虎将軍というのは演義の創作で、実際には関羽、張飛、馬超、黄忠が同格に置かれていて、これに着想を得た羅漢中が作ったものと思われる。
なお、馬超が左将軍に任命される際、荊州にいた関羽は諸葛亮に馬超とはどんな奴だという手紙を送っており、孔明は「馬超は張飛将軍と互角です。もちろん関将軍には及びませんが」と言って機嫌を取っている。
なお、馬超は劉備軍とは戦っていないので孔明の策もなければ張飛との一騎打ちもない。漢中争奪戦でも曹洪に阻まれてほとんど功績をあげることが出来ずに終わっている。
個人的な馬超の評価
諸葛亮孔明、趙雲、馬超、この3人は演義と正史がかけ離れ過ぎている訳だが、前二者が正史でも優れた人格をもっていたと思われるのに対し馬超の粗暴ぶりは酷い。
おかげでこの記事はあまり書きたくなかったほどで、五虎将軍の中では最期になってしまった。羅漢中はよくもまぁ、この人物を悲劇の名将にしたて上げたものであると感心せざるを得ない。
三国志を書いた陳寿もその勇猛さを以て一族を破滅させたと評しており、後代の歴史においてはそれほど評価はされていない。蜀の武将では関羽と張飛は後代の歴史家からも名将からも評価されているのとは対照的である。
それでも武勇に優れていたのは確かであり、あの曹操をもう一歩のところまで追い詰めている。涼州では神威将軍と呼ばれるほど恐れられていたのも確かであるが、粗暴で己の利益しか考えない性格のために結局破滅してしまった。
それでも陳寿の言う通り、天寿を全うできたので良かったというべきかも知れない。
それにしても、演義から入って正史を読むとガッカリすることが多いよなぁ。
結局のところ馬超はいいとこなしじゃないか…