世界史上には度々無敗の指揮官が登場する。
日本では武田信玄や上杉謙信なんかが有名だけれど、中国だと今回紹介する陳慶之が有名だ。
時は中国南北朝、ダメ国家として有名な梁の時代に活躍した百戦錬磨の勇将について見て行こう。
寡兵にて大軍を破る
陳慶之は元々斉の王族である蕭衍の部下であったのだが、この蕭衍が起こしたのが梁という国だったのでそのまま梁の将軍になったといういきさつがある。
ちなみに蕭衍はかなりの囲碁マニアで一度没頭すると夜通し指していたのだが、家臣は当然皆寝てしまう。ただ1人陳慶之だけは起きていたというエピソードが残っているので、蕭衍は陳慶之のことをかなり気に入ってたのだろうな。
斉も梁に負けず劣らずのダメ国家で、建国から20年ちょっとで滅んでしまう訳だが、それはさておき陳慶之は次々と武功を重ねて梁という国で次々と出世していく。
梁をダメ国家とは言っているが、世界的に同時代では最も豊な国の1つで、そこで出世していくというのは中々大変なのであるが、陳慶之は抜群に軍事的才能に恵まれていたようで、蕭衍の信頼は厚かったようだ。
当時中国の南側である漢民族中心の南朝は梁が支配していたが、北は北魏という圧倒的な国家が分裂の危機に瀕しているころであった。
そんな折北魏の王族である元顥が梁に亡命してくるという事件があった。
元顥は実はないが口だけは達者な人物であったようで蕭衍の前で泣きながら演説をした結果蕭衍は「よし!力を貸してやろう!」となったらしい。
多分だけど元顥という人物にはそんなに期待はしてなくて、北魏がいい具合に揉めればいいなぁぐらいに考えていたのではないだろうか。
蕭衍は元顥に「俺がたすけてやっからよ。うちには陳慶之っていうすげぇ将軍がいっから大船に乗った気でいろよ!」みたいな感じで陳慶之に兵を引きいらせて元顥についていかせた。
この時の兵士が7000人と言うことだったから蕭衍は本気で陳慶之達が勝つとは思っていなかっただろう。
後にチンギスハーン率いるモンゴル軍が中国に侵略した時に、一度は失敗している訳だがそれは城攻めの方法がわからなかったと言われている。平地では無敵のモンゴル軍も城を攻めるのには苦労したという話がある。
そんな城攻めをするには基本的に城内の倍から3倍の兵力が必要と言われている。
それは三国志の時代からそうなのだからそれより先の時代でそのような常識を知らない訳がない。
陳慶之はある意味梁という国に見殺しにされたようなものであるのだが、多分予想に反して陳慶之は連戦連勝をかさね、ついには都である洛陽を滅ぼすに至る。
三国志マニアをはじめ中国史マニアにはおなじみの洛陽という都市だが、後漢が都をおいたり古くは洛邑という名前で紀元は紀元前770年の周の武王の弟周公旦が建てたという実に歴史のある都市だ。日本の京都が1000年京と言われているが、洛陽は2000年以上もの歴史がある都市な訳だが、それをたった7000の兵で落としたというのはにわかには信じがたい。
なにせ三国志の英雄である蜀の諸葛孔明が何十万という兵力を以て北伐を行ったが洛陽には遠く及ばずに終わったぐらいである。
孔明の時代には司馬懿というとんでもない名将がいたから比較にならないが、実績だけで見たら陳慶之は孔明の何千倍もすごいということになる。
記録によれば陳慶之は洛陽に到着するまでに47戦し32の城を落としたというのだが、個人的には「本当かよ?」と思ってしまう。
ゲームでさえもそんなことは不可能なのに実際にできるものなのだろうか?どこか誇張されているのではないだろうかと思う。
「まるでカカシですな」
名将ベネットだったらそう言っているに違いない。
実は全然無敗ではない件
陳慶之無敗伝説はどこから来たものなのかはわからないが、実際は全然無敗ではない。
洛陽を落としたはいいが元顥たるや相当無能だったようで功績のある陳慶之を遠ざけてしまう。
魏晋南北朝は本当にどうしようもない王族だらけだ・・・
爾朱栄という北魏の将軍にそのすきを突かれてあえなく敗退、兵士は全滅し陳慶之は坊さんの姿に化けることでなんとか逃げ延びたらしい。梁側の記録では洪水によって全滅したとあるがどうだろう?個人的には怪しいと思っている。
洛陽が落とせたのは陳慶之の軍略もあるだろうけれど、北魏と言う国の内紛に拠るところが多いだろうと思う。実際その後梁はかの有名な宇宙大将軍侯景様によって都を占拠されメチャクチャなことになっているし、この時の原因も侯景様の軍略の才ではなく(奴は戦にかなり弱い!)他の王族が助けを一切出さなかったからにすぎないし、陳慶之もそれに近いものがあるんじゃなかろうかと思う。
この敗戦は梁の中ではなかったことになっているっぽく、陳慶之はかなり出世して褒美もたくさんもらっている。
とはいえ帰国してからの活躍も目覚ましく、各地の反乱鎮圧や当の宇宙大将軍侯景様の撃退にも成功しており、その戦の才能は本物であろう。
なんたって宇宙大将軍を倒しているし、三国志の時代に生まれていれば大活躍できたかもね!
陳慶之自体は宇宙大将軍を倒して3年後に病死をしていて、その才能は漢の武帝の時代の衛青や霍去病に次ぐものであるとされている。
梁側による史料によると確かに無敗なんだけれども、そのほかの記録、特に北魏やその派生国家である東魏の資料においては尭雄という将軍に何度か負けたことが記されていたようで、後年司馬光が宋の時代にまとめた歴史書である「資治通鑑」にはその内容が記されている。
陳慶之自体南朝側のヒーローに祭り上げられている感じがあるのかも知れない。
個人的な陳慶之の評価
陳慶之は戦上手だけれども関羽や張飛のように武力が強い訳ではない。
実際梁の側の資料にも以下のような文章が残されている。
「慶之性祗慎,衣不紈綺,不好絲竹,射不穿札,馬非所便(陳慶之は慎み深い性質で、華美な服を着る事も無く、音楽(管弦楽)を好まず、弓を射れば的に当たらず、騎乗もうまくなかった)」
だからって某コーエーみたいに武力8とかにするのはやりすぎだと思うけどさ(^^;)
武官タイプというよりも孔明や周瑜に近い軍師的なタイプだったのかも知れない。
多少は作られた面もあるとはいえ陳慶之が希代の軍略家であるのは間違いなく、孔明ですらできなかった北伐を成功させて洛陽を落としたのは確かである。
大分盛られているところはあっても、陳慶之は中国史上最強クラスの指揮官であることに疑いはないだろう。
もう少し主君に恵まれていたら天下に平定をもたらす存在だったかも知れないし、歴史を変えていたかも知れない。
亡命してきた元顥や宇宙大将軍を自称した侯景、斉および梁の王族である蕭一族など、魏晋南北朝時代には優秀な将軍が多いのにダメな君主が多すぎる(><)