圧倒的絶望を覆した斉の名将「田単」が凄い!!

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田単が将軍に抜擢された時、斉の国は絶体絶命の危機だった。

敵は中国における戦国時代を代表する戦略家で三国志に出てくる登場人物などの尊敬を一身に集めることになる楽毅。

誰もが斉の国の滅亡を確信していた。

ただ一人田単以外は。

 不遇な前半生

田単がいつ頃生まれたかはわかっていない。

彼は太公望が作りし国である斉の国の下級役人としてウダツの上がらない生活をしていた。

紀元前284年、斉の国は名将楽毅率いる燕および5か国の連合軍にメタメタにやられてしまい、都も占拠され、斉王は莒の地に逃げ込む。

楽毅と言えば中国史に名だたる将軍で、その書体は書聖王義之が真似るほど完成度が高かったという。

それは後世の評価によるもので、斉王は負けたにも関わらずポッと出の楽毅を甘く見ていた。それは斉の国の人々もそうであったようで、都こそ落とされたものの斉にはまだ70を越える城が残っており、まだまだ防衛は万全で、これ以上逃げまどう生活などするはずがないと高をくくっていた。

しかし安平に住んでいた田単は楽毅という男の実力を見抜いていて、馬車の車輪を鉄で覆って整備しておくように皆に勧めた。人々は誰も言うことを聞かなかったが、田単の言う通り楽毅の活躍は目覚ましく、70もあった城は瞬く間に制圧されてしまう。

かくして斉の人々は馬車に乗って逃げまどう訳だが、車輪が折れるなどして逃げ遅れる人々が多数出現、一方の田単は無事即墨(今の山東省のあたり)に逃げることができた

太公望以来有力な国家だった斉はもはや即墨と王のいる莒を残すのみで、さらに斉王が宰相である淖歯に殺害されるという事態に。

淖歯はさっさと莒を逃げ出し、国はもはや絶体絶命。

そんな折、先王の遺児法章が斉の襄王となって楽毅の猛攻を防ぐという奇跡が起こる。

楽毅は攻めあぐね、先に即墨を攻略し襄王を孤立させる作戦に出た。

即墨は大夫と言う者が守っていたが、所詮は楽毅の敵ではなかったらしく、早々に戦死してしまう。

即墨が陥落となる寸前に、城の人間は田単が車輪を整備していたということを思い出す。

もしやこいつらなら我々を窮地から救ってくれるんじゃないか?

そう思った即墨の人たちにより田単が急遽指揮を執ることになる。

田単の伝説の始まりである。

名将田単

田単は楽毅からよく即墨を守り、そして楽毅の弱点を探り始めた。

優れた軍略家というのは何よりも情報を大事にするものだ。

戦国時代の武田信玄や織田信長しかり、ローマを苦しめたカルタゴの名将ハンニバルしかり。

田単は燕の昭王が崩御したことを知ると間者を送り以下のような噂を流させた。

「斉の王は既に死んでいて、楽毅がなかなか城を落とさないのは国に帰って自分が処罰されるのを恐れているからで、楽毅は自分が斉の王になりたいと思っている。斉の人間は代わりの人間が来て攻めてくるのを恐れている」

常日頃から楽毅と仲が悪かった燕の恵王はそれを信じた。

所謂離間の策である。

恵王は楽毅に帰国するように命じ、命の危険を感じた楽毅は趙の国に亡命することになる。

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恵王は代わりに騎劫と言う人物を代わりに対斉の司令官に任命したのだが、燕の軍人はとてつもない勢いでこれに落胆してしまい、士気が駄々下がりしたという。

そりゃそうだ、軍神のような楽毅を敵の流したわかりやすいウソを信じて解任してしまうんだから、この国は長くないと思うのも無理はない。

田単はこの機を見逃さなかった。

田単は兵士の士気こそがこの状況を打開できる唯一の手段であることを知っていた。

そこで城内の人が食事をとる時には必ず先祖を祀らせることにしたわけだが、ある日そこに鳥が来て食事を食べてしまった。皆これを不気味がった訳だが、田単はすかさずこう言った。

「これは神が来て我々を救うということの証だ!!」

「きっと神が来て私の師となるであろう」

これを聞いたある者が「俺が師になってやろうか?」と聞くと田単はその者を神に祭り上げ、皆の前で「神が現れた、私はこれからこの方の言うことを聴くことにする。そうすれば我々は燕に勝てる!!」と言った。

全くイワシの頭も信心からである。

田単は再び間者を使って燕の陣営に以下のような噂を流させた。

「斉の人間は城外にある先祖の墓を荒らされないかどうか心配している。もしそのようなことがあれば斉の人間は城の外に出てしまうに違いない」

敵将の騎劫はこれはチャンスとでも思ったのか墓を暴き死体を焼くという強硬手段に出る。

斉の人間はこの蛮行に怒り、燕の人間への闘争本能を呼び起こした。

火牛の計

時は来た。

田単は燕軍に対して降伏したい旨を伝える使者を送った。ダメ押しで金まで渡した。

燕軍はいい気になって油断した訳だが、田単はいつの間に用意していたのか1000頭の牛の角に剣を、尻尾にたいまつを括り付けて燕軍に向けて追い立てた。更には銅鑼をこれでもかと打ち鳴らしその後を兵士が追撃した。

夜襲を受けた燕軍は総崩れとなり、敵将の騎劫は討ち死にした。

田単はそのまま燕軍に占領されていた70もの城を取り返し、斉は元の領土を取り戻すことができた訳であった。

田単はそのまま趙の国の軍を率いて燕を攻め、韓の国を攻め、その功績で趙の国の宰相になったという。

田単がどのようにして趙の国の将軍になったかはよくわかっていないが、この時代有能な人間が仕える国を変えることはよくあった。

今で言う転職のようなもので、これより後の世の三国志の時代だって主君を変えることはよくあったし、賈詡なんて5回も主君を変えているし。

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個人的な田単の評価

諸葛孔明が最も尊敬した人物である楽毅を追い返した。

田単の実績はこれだけで十分であろう。

機を見る力、用兵の方、最終的には趙の宰相にまでなってしまうその出世力、戦国時代だけでなく、中国の歴史の中でも最強クラスの将軍だと言えるだろう。

敗北が1つも記録されていない部分も大きい。呂布だって関羽だって楊大眼だって項羽だって負けているわけだし。無敗と言うのはやはり大きい。しかも強敵楽毅に勝てたのは田単だけ。

ローマのスキピオ、斉の田単と言ってもよいのではないだろうか。世界史的に見てもかなり強い。

いずれにしても滅亡寸前だった斉の国は田単の活躍によって救われた。圧倒的に不利な状況、絶望的な状況を跳ね除けるその胆力は是非見習いたい。