黄忠と共に老将コンビを組んでいるイメージの強い厳顔
南宋末期の名将文天祥の詩にも歌われる蜀漢の将厳顔について見て行こう!
劉焉・劉璋親子に仕える
厳顔が登場するのは劉備が孔明や張飛と共に益州を治める劉璋を攻めた時のことだ。
当初劉備の入蜀を劉璋は喜んでいた。
黄巾賊討伐の兵を挙げた時、劉備がかけつけたのは当時幽州の太守だった同性の劉焉で、自分に味方をしてくれると思っていたのだ。
劉璋の父劉焉の代から仕える老将厳顔は劉備の入蜀について「猛虎を我が家に放つようなものだ」と反対したが聞き入れられることはなかった。
しかし厳顔の読み通り劉備はその牙をむき、劉璋を攻めて巴蜀の地を奪わんとした。
厳顔はその時巴の地を守っており、歴戦の猛将張飛がこれを攻めた。
厳顔が老将であるのを見てこりゃあ楽勝だぜ!と思った張飛だったが、実際に戦ってみると厳顔かなり強い。
猛烈に攻めても老練な手管でよく守る。
この頃になるとさすがに経験を積んだ張飛は一計を案じてある噂を流させる。
それは張飛が巴の攻略をあきらめて一路劉璋のいる成都を目指すというものだった。
主君が危ないと知った厳顔は城から討って出て張飛との会戦に臨みますが、これが張飛の仕掛けた罠だった。
あらかじめ忍ばせておいた伏兵が左右から厳顔の軍を強襲し、本体を張飛の本体が突撃してきた。
軍は壊滅し、厳顔は捕えられて張飛の前に。
「貴様らは無礼にも我らが土地を犯した、我が国の将はお前たちに降るぐらいなら皆喜んで死を選ぶ。殺すなら殺せ、覚悟はできている」
この言葉に張飛は激怒、即刻首を刎ねろと部下に命じるが、厳顔は顔色一つ変えずに言う。
「何を怒ることがある?」
そう問われてハッとするあたり張飛らしい。
張飛はなぜか厳顔のことが気に入って、縄を解き厚くもてなした。
「兄者は大恩ある漢王朝を復興させようとしているんだ。今の世の中をみてくれよ、曹操の野郎が天子さまをいいように操って自分の国を建てようとしていやがる。俺たちには益州と、そしてあんたのような武将が必要なんだ」
そう言って差し出された張飛の手を、厳顔もまたつかんだ。
「わかり申した。私も漢王朝の復興に力を貸しましょう。我々は敵対しあうべきではない。本当の敵は別にいる」
かくして厳顔は劉備の仲間となり、ほどなく劉璋も劉備に降伏した。もとより劉璋に漢王朝復興の意思も気力もなく、巴蜀の地の人々は皆劉備玄徳を歓迎した。
漢中争奪戦
益州を平定した劉備は、五斗米道の教祖張魯の守る漢中に攻め込んだ。猛将馬超に苦戦した劉備だったが、無事に馬超を仲間に加え、そのまま漢中を攻め落とす勢いであったが、張魯は曹操に降伏し、曹操は2人の名将を漢中に派遣してきた。
歴戦の勇将である張郃は張飛が、もう1人の名将、曹操の従弟でもある夏侯淵を黄忠と厳顔の老将コンビが迎え撃つ。
法正の策により夏侯淵の本陣より離れた逆茂木を焼き払い、そこに気を取られている隙に背後から夏侯淵を強襲、歴戦の名将を破る活躍を見せたのであった。
夏侯淵には熟慮せずに直観で行動する癖があり、常日頃から曹操にそれを注意されており、劉備陣営はその欠点を見事についたといえる。
その後厳顔がいつ亡くなったのかはわかっていない。
正史の厳顔
とここまでは「三国志演義」での厳顔の話。
正史ともいえる「三国志」での厳顔はどのようなものであったかというと、演義同様張飛と戦う場面が初出で、張飛に敗れた厳顔が啖呵をきるところは演義と同じで、それを張飛が気に入って劉備の側につくのも同じ。張飛による計略があったのか、実際にどのように戦ったのかなどは不明で、その後の活躍はなく、漢中争奪戦に加わったのかは不明。
さらに演義では「老将」のイメージが強いが、黄忠と違って正史にそのような記述はない。
どうして老将のイメージがついたのかは完全に謎で、演義を作った羅漢中に聞いてみたいような気もするが、三国志演義は羅漢中の完全創作というよりも民間伝承をまとめた面もあるので、厳顔=老将のイメージはかなり昔からあったようだ。
恐らくは劉璋の父劉焉の時代から仕えているという部分から長く国に仕えていた老将のイメージがついたのではないかと思う。
南宋最後の名将として知られる文天祥はその詩に厳顔を登場させており、当時から評価の高い武将だったことが伺われる。
「爲嚴將軍頭 爲嵆侍中血(厳将軍の頭と為り 嵆侍中の血と為る)」
厳顔についてはその生年も、そして死去した年もわかっていない。