世界史の教科書でもほとんど扱われることがないため、我々日本人にはなじみの薄い五代十国時代なんだけど、結構キャラの濃い人物たちが狂騒ともよむべき権力争いをしていて興味深い部分も多かったりする。
今回は唐の滅亡から宋が中国を統一するまでの歴史をまとめてみた!
唐と節度使(藩鎮)
五代十国時代の歴史を語るのに、まずは節度使の制度について語らなければならない。
唐は元々北魏の流れを組む王朝で、孝文帝の時代に整備されたと言われる府兵制をその軍事の基本としていた。
府兵制を簡単に言うと、兵農一致の軍事制度で、普段は農民として暮らしている者から兵士を徴収し、その者は租庸調を免除するというものであった。これは日本でもそうであったように、租庸調というのは重過ぎる税制度で、玄宗皇帝の時代にはこの制度は崩壊していた。なにせ唐は広い。そして兵士が派遣されるのは住んでいるところから遥か遠くの地であり、帰れる保証もない。そのような事態になり逃げだす者が多数、兵士は集まらないは税金はとれないは逃亡した農民が貴族の荘園に逃げ込むはでもはや国家存亡の危機となっていた。
そこで活躍したのが節度使および藩鎮である。
これは辺境の地の防衛を節度使という中央から派遣された人物に任せ、軍事権と財政権を与えた制度であり、節度使として成果をあげると後に中央での出世が約束されていた。
問題はいくつかあったのだが、この「成果」というのが中央政府である唐にどれだけ資金を送れたかであったので、節度使は皆かなり悪辣な取り立てを行っており、領民の不満がたまっていたことと、軍事権があるので中央政府よりも軍事的に優位に立ってしまったことであろう。節度使として藩鎮に居座る者も出てきており、これらは世襲化し、唐が滅亡してからはこの節度使が独立して藩鎮が国となった。
五代十国時代の五代は開封や洛陽、長安などの中原を中心とした国であったが、十国はこの節度使が独立して建てた国々なのであった。
五代の歴史~後梁から後漢まで~
まずは唐が滅びてから後漢の時代までを見て行きたいと思う。
唐滅亡から後梁の滅亡(~923年まで)
唐の末期は悲惨であった。塩の密売人であった黄巣が大規模な反乱を起こすも唐には既にそれを鎮圧する力はなく、トルコ系民族である突厥の力を借りねばならなくなっていた。唐にとっては良いことなのか悪いことなのか、黄巣の部下であった朱温という人物が唐に寝返り、突厥の将軍李活用と朱温の活躍によって黄巣の乱は鎮圧された。
唐はその功に報いるために朱温に朱全忠という名を与えた。健全なる忠義の士という意味である。歴史は残酷だ。ご存知のようにこの朱全忠こそが唐を滅ぼすことになるとはこの時は思っていなかったのであろう。
朱全忠も李活用も、唐王朝の為になんて理由で戦う男たちではなかった。
黄巣の乱が終わると天下の覇権を握るべくこの2人の激しい戦いが始まった。李活用は独眼竜の異名をとる将軍で、鴉軍と呼ばれる強力な騎馬軍団の指揮をしていて、戦においては数段上であったが、朱全忠は開封に都をおき、その圧倒的な経済力と、唐の皇帝を手元に置くという点において優位であった。
朱全忠は幼帝を擁立すると無理矢理禅譲させ、勝手に後梁という国を作って自ら皇帝を名乗り始める。この際、朱全忠は唐の王族を根絶やしにし、唐を支えた官僚、宦官、貴族たちを一掃した。
このことで上手く政治が回らなくなってしまい、さらに戦においても李活用の後を継いだ李存勗に大敗してしまう。
挙句の果てに朱全忠は実子の朱友珪に暗殺されるという簒奪者に相応しい最期を迎えた。
この原因は、特に五代で顕著であった「仮子」という制度によって有力者同士で養子を迎える風習にあって、朱全忠は優秀だった仮子の朱友文を跡継ぎにしようとして実子の怒りを買った訳である。
朱全忠の見立て通り、朱友珪は一切君主には向かない性格で、弟の朱友貞によって暗殺、この朱友貞も李存勗によって攻め滅ぼされ、後梁はなんと建国十五年という短期間で滅亡してしまう。
後唐から後漢滅亡(~950年まで)
突厥出身の李存勗は洛陽を都とし、国号を「唐」とした。これは李存勗の中では唐王朝を復活させたということなのだろう。後の歴史においてはこれを「後唐」と呼ぶ。
李存勗は戦闘においては非凡な才能を見せ、耶律阿保機率いる遼を華北から撤退させていたりするほどだが、政治的には全く才能がなかった。権力を握った成り上がりものの典型みたいな人物で、豪奢な暮らしを支えるために過酷な税の取り立てをし、各地で反乱が頻発することになる。
李存勗は父の仮子であった李嗣源を反乱鎮圧軍の司令官に任命するが、兵士たちは李嗣源を皇帝に推挙、李存勗は部下たちによって暗殺されてしまう。
なお、この時点で益州(現在の四川省)の地にあった十国のうちの一つ前蜀は李存勗によって滅亡させられている。
李嗣源は馮道を宰相にするなど比較的安定した政治を行い、五代屈指の名君明宗としても知られるが、在位わずか七年で崩御してしまうと、激しい後継者争いが起った。
最終的には仮子であった李従珂が後唐を継ぐのだが、それに李嗣源の娘婿であった石敬瑭は納得しない。後唐を継ぐのは自分であると主張し、この二人の間に激し争いが起きた。
自らの不利を悟った石敬瑭はここで契丹族の耶律阿保機と手を結ぶ。強大な軍事力を手に入れた石敬瑭の前に李従珂はもはや為す術がなく、自死を選択、ここに後唐は建国から14年で滅亡、石敬瑭は晋という国を建国。中国史ではこれを「後晋」と呼ぶ。
後晋は建国の恩から遼に燕雲十六州を割譲、このことは世界史の教科書にも載っているのでご存知の方も多いと思う。
さて、この石敬瑭も即位6年で崩御してしまう。しかも跡を継いだのは幼帝で、石敬瑭の甥がこれを廃止出帝として即位、遼に対して反抗的な態度を取ったために遼の侵攻を受け、2度は撃退するものの3度目に陥落、わずか11年で後晋もまた滅亡してしまう。その後残った人物たちはゲリラ作戦を展開、遼の軍団に関して散発的な犯行を繰り返した。遼の軍団の中にも望郷の念が強くなってきたため、遼は中原から撤退していった。
この時、後晋で最大の兵力を誇る河東節度使の軍団は動かなかった。
河東節度使を指揮する劉知遠という人物は、石敬瑭の遺言に従って幼帝を補佐するつもりであったが、それが簒奪されたために大いに不満を持っていたのだ。
遼が去ると劉知遠は軍団を率いて洛陽に入城、その後は開封を都とし、後漢を建国する。
しかし例によってこの劉知遠も即位後すぐに崩御する。在位期間はわずか1年であった。後を継いだ劉承裕という人物が小物を絵にかいたような人物で、猜疑心から有能な臣を次々に粛正、郭威という家族を皆殺しにされた人物が立ち上がり、劉承裕を打倒。後漢は建国からわずか4年で滅亡することになる。
951年、ここに5代最期の国家である後周が建国されることになる。
十国の歴史(951年まで)
唐滅亡後、各地の藩鎮は独立し、それぞれ国を建てた。
真っ先に滅んだのは益州(四川)にできた前蜀という国家で、これは後唐への忠誠を断ったために925年に李存勗によって滅ぼされた。
その後孟知祥という人物が後唐よりこの地の節度使に任じられるが、混乱に乗じて独立、後蜀を建国する。
次に滅びたのが呉と言う国で、黒雲都と呼ばれる強力な親衛隊を要していたが、935年この黒雲都の指揮者であった徐知誥によって無理矢理禅譲させられ935年に滅亡、徐知誥は南唐を建国する。
次に滅亡したのは閩(びん)。これは今の福建省に建てられた国で、皇帝が道教にはまって一族を粛正したり、歴代皇帝の暴政につぐ暴政で国は衰退していき、945年南唐に滅ぼされることになる。
次は楚という荊州にできた国で、907年に楚王に任じられた馬殷という人物が建てた国で、こちらも勝手に後継者争いで国力を落とし951年後唐に吸収される。
後周の建国された951年の段階で残っていたのは後蜀、南唐、荊南、呉越、南漢、北漢の6国となる。
後周の英主柴栄(世宗)から宋の趙匡胤(太祖)へ
「人命を視ること草芥の如し」
五代十国時代を最もよく言い表した言葉であったと言える。戦乱に次ぐ戦乱で人々はゆっくり眠ることさえできなかった。過酷な税の取り立て、すぐに変わる王朝、治安は乱れ、盗賊や山賊が横行する社会に人々は疲れ果てていた。
そんな時代にあって一人の英雄が後周に登場する。
後の世に後周の世宗と言われるようになる柴栄は義理の伯父であった郭威の後を継いで即位と同時に北漢との高平の戦いに圧倒的な状況で勝利をし、国力を蓄え中華統一戦争に臨んだ。
柴栄は後蜀や南唐を攻め、領土を拡大させ、もうすぐで滅亡というところまで追い詰めるも志半ば、39歳という若さで亡くなってしまう。
しかしその想いは右腕であった趙匡胤に受け継がれる。
中華史上まれに見る平和な禅譲によって趙匡胤は宋を建国、963年に荊南、965年に後蜀、975年には南唐を滅ぼすことに成功。しかしその翌年976年に突然崩御してしまう。趙匡胤の死については「千載不決の議」と呼ばれ、すなわち弟である趙匡義の暗殺説が当時から叫ばれており、現代でも中国史最大の謎の一つとされている。
後に宋の太宗と呼ばれる趙匡義のもとで978年には呉越、979年には北漢が滅ぼされ、唐以来の戦乱の世は終わり、中国ではしばし平和な時代が訪れたのであった。