復讐の鬼!呉王闔閭、夫差に仕えた悲劇の名将「伍子胥(ごししょ)」~死者に鞭を打つの語源にもなった人物~

紀元前770年以降、周王朝の弱体化が顕著になると、各国が覇権を争う春秋時代に突入した。

この時代は多くの国が相争う時代であり、中でも春秋の五覇と呼ばれる5人の覇者を中心とした時代でもあった。

中国の歴史ではよくあることだが、春秋の五覇に誰が含まれるかは議論がある。候補が7人いるのだ。

その中の一人、呉王闔閭、夫差の親子に仕え、多くの諺の語源にもなった伍子胥について今回は見て行こう。

父と兄を殺されて

f:id:myworldhistoryblog:20190610175312j:plain

 伍子胥が生まれたのは、後に覇王と呼ばれる項羽を輩出した楚の国であった。

彼の父伍奢(ごしゃ)は楚の平王の太子健の教育係筆頭であり、伍子胥の先祖は春秋の五覇に数えられる楚の荘王を支えた伍拳という人物で、伍子胥は楚の名門貴族出身だったと言ってよいだろう。

順調にいけば伍子胥は楚の宰相になれていたかも知れない。

だが、歴史に詳しい人はご存知のように、伍子胥は後に楚に対して強烈な復讐戦を挑むことになる。

事の発端は紀元前528年、平王が二人の兄を暗殺して王位に就いた時から始まる。平王は政治的には完全な暗君であった。暗君の特徴として賢臣を遠ざけ佞臣を寵愛する傾向があるが、平王は費無忌という佞臣を側近として抱えていた。

この費無忌という人物は太子健の教育次長の地位に置かれ、要は伍子胥の父の部下となったわけである。

費無忌にとって伍奢が目の上のたん瘤であり、ぜひとも取り除きたい人物であった。

そんな折、太子健と北方の強国である秦の姫組との縁談の話が持ち上がった。平王は費無忌を秦への使者として送り、帰ってきた費無忌は平王にこう報告する。

「晋の姫組は絶世の美女です。そのまま陛下のものにするのがよろしいかと」

この頃まだ儒教文化は中国には広まっていない。どころかまだ孔子が30歳になる前の話である。時は乱世、倫理もクソもない。平王はこの言葉の通り秦の姫を自分の側室に加えてしまう。さらに太子からの報復を恐れた費無忌は平王に対し讒言を続け、平王もまた息子を疎ましく思ったのか遠く辺境の地への防備へ派遣してしまう。

費無忌はさらに讒言を続け、太子は平王に恨みを持っている旨を吹き込み、平王はそれを真に受ける。

見かねた伍奢は平王に対し諫言をした。

「王はなぜ、逆進の讒言を真に受け血を分けたご子息を疑われるのか?」

費無忌はこれに対しさらなる讒言をもって応える。

太子健とは共謀してクーデターを計画していると。

平王はこれを真に受け、伍奢を投獄、刺客を放って太子を暗殺しようとした。

あまりにも理不尽な命令だったため、刺客はかえって太子に同情し、太子はそのまま隣国の宋に亡命することが出来た。

費無忌はこれ幸いと思ったが、伍奢には二人の息子がいた。これらの人物が自分に復讐をしてきたら困る。そう考えて伍奢に息子二人をおびき寄せようとする。

伍奢の長男の伍尚はこれを罠だと知りながら父を見殺しにするわけにもいかず都に向かい、弟の伍子胥には逃げるように言った。

「お前ならきっと、父の仇が討てる」

伍子胥は弓を取ると召還の使者に向かって弓を放ち、使者がそれにひるんだすきを見計らって逃亡する。

伍子胥の無事を知った伍奢は「楚の君臣は兵難に苦しむであろう」という言葉を遺し長男と共に処刑された。

宋へと向かう道すがら、伍子胥は父と兄の復讐を胸に誓ったのであった。

呉王闔閭(こうりょ)との出会い

伍子胥を取り逃したと知った費無忌は伍子胥の首に懸賞金をかけた。伍子胥を捕まえた者は五万石の諸侯に取り立てると。

楚の国中が伍子胥の首を狙うようになるもなんとか宋にたどり着くことに成功。しかし宋の内乱が勃発したため太子健は隣国の鄭にいることがわかりそちらに向かう。

そこに目を付けた国があった。晋である。春秋五覇の中でも特に有力であった文公以降、晋は強国となり、中華の覇者たらんとする野望に満ちた国になっていた。晋は太子健を唆し鄭の国に侵攻しようとしたが発覚、鄭の国の宰相子産に殺害されてしまう。

健の息子の勝となんとか巡り会えた伍子胥は鄭を脱出することに成功、新興国家である呉に亡命の望みをかけた。

しかし呉に行くためには楚を通らねばならず、身元がバレて逃亡している最中に勝とも離れ離れになり、追っ手を交わしながらなんとか長江までたどり着く。

この川を渡れば呉の国に行ける。

身分を偽ってなんとか漁師の船に乗せてもらった伍子胥は、漁師にお礼として先祖伝来の宝剣を渡した。しかし漁師はそれを受け取らない。

「あなたを差し出せば諸侯になれる。そんな剣をもらうどころじゃない」

漁師は伍子胥の正体に気づいていながら河を渡した訳である。

漁師に感謝しながら呉の国に入った伍子胥は公子光(のちの呉王闔閭)を通じて呉王僚への謁見に成功した。

「即座に楚に攻めるべし」

呉にとって宋は強敵であった。両国は国境問題を抱えていて、常に争っている状態だったと言えるが、呉にも複雑な事情があった。後継者問題である。

現在の呉王僚の即位に対し、その兄の子である闔閭は不満をもっていた。そのため呉の情勢は極めて不安定で、対外戦争を行えるような状況ではなかったのである。

これでは楚の国への復讐が果たせない。

伍子胥は一度身を潜め、策を練り続けた。

伍子胥が呉に来て三年、情勢が動いた。

楚において、父と兄の仇ともいえる平王が死亡。後継者にはかの秦の姫との間の子供が選ばれ、昭王となった。呉王は領土拡大の好機ととらえ急ぎ楚に軍団を送る。

伍子胥はこれを好機ととらえ、闔閭のもとへ刺客を派遣。闔閭はこの刺客を自室の地下に潜ませ、呉王僚を自宅に招く。

呉王も十二分に警戒しており、親衛隊を自己の周りに配しており、スキはなかった。しかし料理人に扮した刺客が焼き魚の中に武器を隠しており、料理の取り分けの際に呉王に斬りかかり刺殺、刺客もまた親衛隊に切り殺されるという壮絶な現場であった。

結果的にクーデターは成功し、公子光は呉王闔閭として即位することになったのであった。

呉の快進撃

春秋時代全体を考えても、闔閭の時代の呉は最強国家の一つと言えるだろう。

腹心ともいえる伍子胥の存在はもちろん、後に伝説の兵法家として世界の歴史に名を残す孫武もまたこの闔閭の部下となっている。孫武は「孫氏の兵法書」の作者であると言われており、これらの名臣のもと、呉は強勢となり、紀元前506年、闔閭自ら軍を率いて楚に攻め上り、楚の首都を陥落させることに成功したのであった。

父が殺されてから16年、伍子胥の復讐は完了した。

既に父や兄の仇はこの世にいなかったが、伍子胥は16年経っても恨みを忘れておらず、平王の墓を暴き、その屍をひきずりだして自ら鞭で300回ほど打ち据えたという。このことは「死者に鞭を打つ」の語源になった。

このことをかつての親友であった申包胥に責められると「日暮れて道遠し、故に倒行してこれを逆施するのみ」と答え、これが「日暮れて道遠し(年をとってしまったのに、まだ人生の目的が達成できていないことのたとえ)」の語源ともなった。

呉の楚侵攻に黙っていられない国があった。北方の強国秦である。現在の楚の王室は秦の王室と姻戚関係にある。秦は楚の救援のため援軍の派遣を開始した。同時に闔閭の弟である夫概が国内で反乱を起こしたため、呉は楚からの撤退を余儀なくされることになった。

一瞬にして反乱を鎮めた闔閭は再び楚に攻め込むとこれを破り、更には北の大国斉や晋などにもにらみを利かせた。

このまま中華を統一するかのように見えた呉であったが、敵は思わぬ方向にいた。

臥薪嘗胆

f:id:myworldhistoryblog:20190610175312j:plain

この先の話は漢文の教科書にも出てくるのでご存知の方も多いかもしれない。

楚、斉、晋、秦と言った国家にばかり目を向けていたためか、呉はすぐ隣の越の国が強大になっていたのを見過ごしてしまった。

しかしその増長を見過ごすほど呉という国は甘くなく、越王が死に君主が新たになったのを機に闔閭は自ら大軍を率いて越の国に攻め入った。

闔閭率いる呉の国は、春秋時代においても最強クラスの国家であったことだろう。だが相手が悪かった。新しく越王になった勾践はただ者ではなかったし、その参謀である范蠡(はんれい)は中国史でもトップクラスの軍師であった。

呉に対して圧倒的に劣勢であった越は、奇策に出る。

越の軍隊は三列になって呉の軍団に突撃したかと思えば突然「越万歳!!」と叫んで一斉に自害したのである。

呉の軍団があっけに取られている隙に越は全軍で突撃を敢行し、呉の軍団は総崩れ、闔閭は腰に矢を受けてこれが元で亡くなってしまう。

後継者には息子の夫差が就いた。

闔閭は元々夫差を後継者にするつもりはなかったのだが、伍子胥の強い勧めもあって死の間際に後継者に指名されることとなった。

闔閭曰く「夫差はおろかで残酷であるから呉という国を亡ぼすに違いない」

夫差は自分が後継者になれないことを薄々感じており、伍子胥に対して自分が君主になったら国の半分をやろうとドラクエの魔王のようなことを言い、伍子胥もかれを強く推した。

かくして呉王となった夫差は伍子胥の勧めで、父の仇を忘れないため毎日薪を寝床に敷いて眠っていたという。

闔閭の死から2年が経ち、夫差は越に攻め入り勾践を散々に打ち破ることに成功した。伍子胥は勾践の殺害を進言するが、夫差は勾践を生かすことにした。

勾践は表向きは呉に対して絶対的恭順の意を示していたが、内心では復讐の炎を絶やさぬため、毎晩眠る前に獣の苦い胆を嘗めていた。

薪に臥せながら寝て胆を嘗めるこの一連の話は後に「臥薪嘗胆」という四文字熟語となる。

伍子胥の最期~属鏤の剣~

f:id:myworldhistoryblog:20190610194704j:plain

人を見る目に関しては、闔閭は確かなものを持っていたというべきであろう。

越に勝利した夫差は日に日に増長した。越王の真意を見抜けずに、北の大国斉に侵攻し、中華の覇者たらんとした。

越王はその間に夫差に対して絶世の美女西施を贈呈し骨抜きにさせ、宰相である伯嚭に賄賂を贈り懐柔、着々と復讐のチャンスをうかがっていた。

さらに越王勾践は孔子の弟子としても有名な魯の国の宰相である子貢と画策して夫差の遠征に対して兵を送り、その信頼を得ることにも成功している。

このような状態を伍子胥は危機としてとらえていたが、越の軍師である范蠡は夫差に伍子胥の讒言を繰り返し、次第に二人の中は悪化していった。

伍子胥は度重なる斉への遠征には反対し続けたが、夫差はこれを疎ましく思い、伍子胥の度重なる諫言にも耳を貸さないようになってしまっていた。

伍子胥はもはやこれまでと思い、夫差が斉の国に使者として伍子胥を派遣したのを機に、息子を斉の国に預け単独で帰国。

このことを越と通じている宰相伯嚭に提訴され、夫差は伍子胥の元に属鏤の剣を贈った。つまり自害せよということである。

父同様、佞臣の讒言によって追い詰められた伍子胥は王の命令に従うことにする。

「私の墓の横に梓の木を植えておくがいい。その木はやがて夫差の棺桶を作ることになるだろう。また、呉の城門に私の目を括り付けておいてくれ。越が呉を滅ぼす様を見たい」

紀元前484年、伍子胥は自らの頭に布巾をかぶせ、王より賜った剣で己の首を刎ねたという。

その後呉という国がどうなったか。

それはまた別の話である。

www.myworldhistoryblog.com

個人的な伍子胥に対する評価

春秋時代を代表する人物の一人であり、非常に気性の激しい人物である。

日本人にはこのような気性の激しい人物はいない。実に中国らしい人物だと思う。

史記を書いた司馬遷による演出もあるだろうが、非常にドラマチックな人生で、その生涯はまるでドラマのようである。

「日暮れて道遠し」「死者に鞭を討つ」「呉越同舟」「臥薪嘗胆」と言った有名な故事に多く登場し、その激しい復讐心は世界の歴史の中でもトップクラスの執拗さを以てなされたと言えるだろう。

非常に有能な人物でもあり、彼の活躍により小国であった呉はたちまち春秋時代を代表する国へと成長するもその王族から死を賜れるという父と同様の死に方をしたのも因果というべきかも知れない。

息子を斉に置いてきたことから自らも亡命できたはずなのに自ら死地に赴いたその生きざまは中国で非常に人気が高く、儒教の発展前ではあるが忠義の士と言うことが出来るだろう。

三国時代の曹操は張郃が自分の部下になった時「伍子胥は仕えるべき君主を間違えた。君が私に仕えたのは韓信が項羽から高祖(劉邦)に仕えたことと同様正しいことだ」と述べた訳だが、伍子胥はある意味仕えるべき君主を見誤ったともいえる。

ただ、夫差を君主にまでしたのは伍子胥であるのも確かであった。自らの過ちに気づいた伍子胥は、己の死をもって夫差に自らの間違いを悟って欲しかったのだろう。

自ら王位につけた人物に死を賜れる。ここまでの悲劇は世界史を見渡してもそうそうあるものではない。

www.myworldhistoryblog.com