信長第一の養育係!林道勝(林秀貞)の裏切りと代償について

林道勝の名前を知っている人はかなりの戦国マニアだろう。

織田信秀が息子織田信長のためにつけた4人の宿老の1人で、その中の筆頭「一長」として信長の養育責任者であったわけだが…

 信長を見限る

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戦国の梟雄マムシの道三こと斎藤道三は一度会うや信長の才能を見抜いて「我が子孫は皆信長の前に馬をつなぐであろう」と言ったことは有名で、才能のある人間はその才能を見抜くものだが、その逆も然り。

林は信長の筆頭養育係でありながら信長を見限って柴田勝家と共に信長の弟信行に味方してしまう。

背景には「うつけ」と呼ばれていた信長の普段からの行動に加え、父信秀の葬儀にて抹香を位牌に投げつけた行動があったという。

この辺りで第二位の宿老平手政秀も自ら命を絶ってしまうし、冠婚葬祭を重んじる日本人であれば信長に愛想をつかすのは自然な流れかも知れない。

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信秀は信長をそれでも嫡男として家督を継がせたが、織田家の家臣は信長か信行かで割れた。

割れた結果兄弟で骨肉の争いをすることになり、稲生の戦いにて両軍は激突。結果はご存知の通り信長側の大勝利に終わる。

信長が日本史第一の人物たるゆえんは味方であっても無能な者は切り捨てるのに対し敵であっても有能な人物は重用する部分にあると言って良いだろう。柴田勝家ともども林も信長に許されて再び仕えることになる。この時の林の気持ちってどんなだったろうね?

織田家の政務係

以後林は織田家の政務において重要な役割を担うようになる。例えば足利将軍義昭と信長の関係が悪化した際には義昭の側近に宛てた起請文に名を連ねているし、清州同盟をはじめとした重要文書においては林の名前が必ずと言っていいほど出てくるほどだ。

地味ながらも縁の下の力持ち的に信長という人物を支えつづけた人生だったと言えよう。

裏切りの結末

稲生の戦いから25年が経過した1580年のある日、信長は林を突如として追放してしまう。

追放理由は25年前の裏切りである。

どうして25年も経って処罰に乗り出したのかは当の信長にしかわからないだろうが、家臣団も充実してきた信長陣営において、もはや林の存在は不必要と考えたのかも知れない。

信長は基本自分に歯向かった人間を赦しはしない。人材不足の旗揚げ時にはどうしても人材が必要だったので我慢していたことが、天下統一に近づいてくるにつれどうしても我慢できなくなったのであろう。

織田信長がローマの英雄カエサルと異なるのはこういう点だ。

カエサルは自分に刃を向けた人間であっても基本的には許すし、あとで難癖をつけることもない。ただしそうやって赦した人間から暗殺されるのであるが…

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林の追放は織田の家臣団には大いなる恐怖と映ったようで、後に明智光秀が本能寺の乱を起こしたのもこの一件が影響しているという話があるほどである。

ちょっとのミスも許されない織田信長のもとでは安息の日々は訪れないし、仮に天下なんて獲ろうもののなら日本と言う国が恐怖に包まれていたかも知れないしね。

ちなみに「林道勝」という通称が長い間使われていたのだけれど、本当の名前は「林秀貞」と言うそうだ。

晩年の追放はちょっと気の毒な気もするけれど、信長を裏切っても生き延びたという点ではむしろ運がよかったのかも知れない。